宮部 襄
ミヤベ ノボル
- 肩書
- 衆院議員
- 別名
- 幼名=伝四郎 勝之介
- 生年月日
- 弘化4年4月8日(1847年)
- 経歴
- 旧高崎藩士。儒学者安井息軒に師事。明治3年藩政改革を唱えたために投獄されるが、廃藩後は官吏となって8年には群馬県に出仕し、警保課長や学務課長を経て13年群馬県立師範学校校長。この間、自由民権派結社の有信社を創設し、群馬における民権運動を主導した。14年依願退官ののち自由党の創立に参画し幹事を務めるが、17年密偵殺人事件に連座して有期徒刑12年の刑を受けた。22年の帝国憲法発布の大赦で出獄し、32年の帝国党結党に参加して評議員に就任。その後、第7回・第8回総選挙に出馬するがいずれも落選し、37年の第9回総選挙で当選。はじめ大同倶楽部に所属したが幹部と対立して脱党し、立憲政友会に入党した。41年の第10回総選挙で落選ののち政界を引退。
- 没年月日
- 大正12年9月5日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
宮部 襄
ミヤベ ノボル
明治・大正期の政治家,民権運動家 衆院議員。
- 生年
- 弘化4年4月8日(1847年)
- 没年
- 大正12(1923)年9月5日
- 別名
- 幼名=伝四郎,勝之介
- 経歴
- 旧高崎藩士。儒学者安井息軒に師事。明治3年藩政改革を唱えたために投獄されるが、廃藩後は官吏となって8年には群馬県に出仕し、警保課長や学務課長を経て13年群馬県立師範学校校長。この間、自由民権派結社の有信社を創設し、群馬における民権運動を主導した。14年依願退官ののち自由党の創立に参画し幹事を務めるが、17年密偵殺人事件に連座して有期徒刑12年の刑を受けた。22年の帝国憲法発布の大赦で出獄し、32年の帝国党結党に参加して評議員に就任。その後、第7回・第8回総選挙に出馬するがいずれも落選し、37年の第9回総選挙で当選。はじめ大同倶楽部に所属したが幹部と対立して脱党し、立憲政友会に入党した。41年の第10回総選挙で落選ののち政界を引退。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
宮部襄 みやべ-のぼる
1847-1923 明治時代の政治家。
弘化(こうか)4年4月8日生まれ。もと上野(こうずけ)(群馬県)高崎藩士。群馬県の警保課長,学務課長などをつとめ,明治13年県師範学校長。この間,民権派結社の有信社を設立,14年自由党創立にくわわり幹事となった。37年衆議院議員(政友会)。大正12年9月5日死去。77歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
宮部襄
没年:大正12.9.5(1923)
生年:弘化4.4.8(1847.5.22)
明治時代の官僚,政治家。高崎藩士の子。明治13(1880)年群馬県立師範学校長,14年依願退職ののち,自由党創立に参加し幹事,32年に帝国党結成に参加し評議員。総選挙に数回立候補したが37年第9回にのみ当選。大同倶楽部に所属したが幹部と対立,脱党して立憲政友会に入党した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報