明治後期から昭和前期にいたる代表的政党。正式の名称は立憲政友会で,昭和期には立憲民政党(民政党)と二大政党としてあい対抗し,政党政治の時代を現出した。
日清戦争後,欧米列強の極東進出という情勢に対処するため,元老伊藤博文は政党をも包含する挙国一致の体制を創出する必要を痛感し,1899年から既成政党の改造をめざして活動を開始した。他方,第2次山県有朋内閣と提携してきた憲政党は,山県首相との入閣交渉に失敗して伊藤の新政党運動に接近,1900年9月15日に伊藤系官僚と憲政党とが中心となり,さらに憲政本党や無所属議員の一部を加えて立憲政友会が創立された。伊藤が総裁となり,党首のリーダーシップの確立と国家目標を実現するための政党を標榜し,とくに実業家層の積極的参加を呼びかけた。ここに政友会は藩閥官僚と政党勢力とが合同して,衆議院でも過半数の議席を擁する体制政党として出現した。
この政友会を基礎にして1900年10月第4次伊藤内閣は成立したが,政党に拒否反応を示す山県系官僚の反感をかい,01年の第15議会では貴族院が政府提出の増税案に反対するという異例の事態となり,詔勅でこれをのりきったが閣内対立から総辞職した。これ以後,官僚勢力を代表する桂太郎と,03年伊藤博文に代わって総裁となった西園寺公望の政友会との対抗と妥協によって政権が維持される,いわゆる桂園時代が展開される。この間,党運営は原敬や松田正久らが実権を握って運用し,とくに第1次,第2次の西園寺内閣には原が内相に就任し,官僚勢力に対抗,鉄道の敷設や道路・港湾の整備,学校の設立などの地方利益を積極的に誘導することにより,地主層や地方財界人などに支持基盤を固めて党勢を拡大した。
第2次西園寺内閣は行財政の整理を掲げ,陸軍の2個師団増設要求を抑制しようとして陸軍との協調ができず,ついに1912年12月陸相の辞任により内閣は総辞職に追い込まれると,政友会は国民党とともに第1次護憲運動をおこし,代わって成立した第3次桂内閣を〈憲政擁護・閥族打破〉のスローガンを掲げて攻撃し,翌13年2月これを退陣させた。その直後に政友会が薩摩閥のリーダーで海軍大将の山本権兵衛を支持して政権を担当すると,世論の批判をうけ,尾崎行雄らは脱党して政友俱楽部を結成した。翌年シーメンス事件で山本内閣が崩壊し,元老らが政友会への報復として第2次大隈重信内閣を成立させたため,政友会は野党の地位に立たされ,15年の総選挙で大敗した。この間,1914年に総裁は原敬に代わり,大隈内閣に続いた寺内正毅内閣に対しては是々非々主義を標榜しながら事実上は与党的立場をとり,党勢の回復に努めた。
18年米騒動の衝撃で寺内内閣が退陣すると,9月原を首班として陸海外3相を除く閣僚は政友会員から選任し,本格的な政党内閣が出現した。この内閣は,軍備の充実,産業の奨励,鉄道・港湾の整備,高等教育機関の拡充など,いわゆる積極政策を掲げて第1次世界大戦後の日本資本主義の発展に対応するための諸政策を推進する一方,20年には普通選挙運動の高まりを背景に提出された普選法案に反対して衆議院を解散した。この総選挙では,前議会で成立させていた小選挙区制を利用して大勝し,絶対多数を確保するとともに,この間,貴族院に対しても積極的な工作を進めて政友会への同調を獲得し,軍部との協調にも力を注ぐなど,政権の安定化を図った。しかし,首相原敬の強力なリーダーシップと政党基盤の拡大政策が党利党略に出るものであるとの批判が高まり,21年11月原首相が暗殺されるという事態を招いた。
原の死後,蔵相高橋是清が組閣して引き続き政権を担当するが,党内の対立が表面化して翌年総辞職を余儀なくされた。政友会は,次の加藤友三郎内閣には与党としてこれを支持したが,1923年9月に成立した第2次山本内閣には野党の立場をとり,続く清浦奎吾内閣が貴族院議員を中心に組閣されると,24年高橋総裁ら主流派は憲政会,革新俱楽部とともに護憲三派を形成して第2次護憲運動をおこした。そのため,床次(とこなみ)竹二郎ら反主流派が分裂して政友本党を結成したため,政友会は過半数政党の条件を失い,解散後の総選挙でも議席を減らすことになって政局運用のリーダーシップを失った。その結果,憲政会総裁加藤高明を内閣首班とする護憲三派内閣に高橋ら2名を入閣させ,25年公約の普選法案などを成立させると,高橋は政局打開の見通しを失って辞任し,政友会は陸軍大将田中義一を後継総裁に迎え,さらに革新俱楽部を吸収した。戦後恐慌,関東大震災によって日本資本主義の再編成が迫られるなかで,憲政会が提起する金解禁の早期実現策と,政友会の地主・自作農の負担軽減をめざす地租の地方委譲論との対抗の形で対立は表面化し,三派内閣は崩壊した。
1927年若槻礼次郎憲政会内閣が金融恐慌の処理を誤って退陣し,田中が政友会内閣を組織すると,対中国政策では強硬外交に転換し,北伐の抑止を企図して27-28年には3次に及ぶ山東出兵を強行し,内外の批判を招いた。さらに28年,初めての普通選挙では官憲による弾圧や買収など,大々的な選挙干渉を行ったが過半数を得ることはできなかった。また,その直後の三・一五事件で共産党員とその同調者を全国的に検挙し,治安維持法を改悪するなど,田中内閣はその反動性をあらわにし,29年関東軍が仕組んだ張作霖爆殺事件の処分をめぐって責任を追及され,総辞職した。このころより政友,民政両党の対抗関係はきびしくなり,とりわけ党運営や総選挙のために巨額の資金を調達する必要から財閥との癒着を深め,政友会は三井との関係が指弾された。また,党内には軍部や右翼の一部と結んで党のリーダーシップを握ろうとする者も現れ,政友会の基盤とされてきた地主層が頻発する小作争議によって安定性を失ったこともあって,政党としての主体性を確保することが困難になっていた。そのため29年田中の死後は長老の犬養毅を後継総裁に推すことで党の一体性を保持し,31年満州事変以後,若槻民政党内閣が閣内対立のため倒れると,犬養を首班とする政友会内閣を組織した。ただちに前内閣の金輸出解禁を修正して再禁止策をとって世界恐慌下の日本経済の混乱に応急策を施した。しかし,軍部は満州事変からさらに32年には上海事変へと戦火を拡大し,満州国の建国を宣言するなど,犬養内閣は軍部の暴走を抑止できず,犬養首相が五・一五事件で殺害されて,内閣は崩壊した。
政友会はこの年の総選挙で圧勝して安定多数の議席を獲得していたため,後継総裁に鈴木喜三郎を選んで政権担当の意思を示したが,斎藤実による中間内閣が出現し,政友会からは高橋是清蔵相など2名を入閣させるにとどまった。
続く岡田啓介内閣も中間内閣として成立したため,政友会はこれを支持せず,入閣した3閣僚は政友会を脱党した。一方,1935年に軍部や右翼が中心となって国体明徴問題がおこると,政友会はこれに同調し,民政党などとともに国体明徴決議案を提出して鈴木総裁みずからが提案説明に立ち,政友会は立憲主義を基礎づける美濃部達吉の天皇機関説を否定するという政党にとっての自殺的行為に踏み出した。政党内閣回復への期待が実現されないままに,36年の総選挙では第二党に転落し,二・二六事件を契機に軍部の発言権がさらに強化される状況を迎えて,党内対立も表面化して混迷を続けた。37年幹部の一人浜田国松が寺内寿一陸相との間で,いわゆる腹切り問答を展開して軍部批判を行い,林銑十郎内閣が政党を排除して成立するや,民政党とともに倒閣運動をおこすなどの抵抗を試みるが,将来への展望を切り開くことはできなかった。
そして,各層の期待を担い,清新ムードのなかで登場した近衛文麿内閣の成立には政友会は好意的態度をとり,1937年7月日中戦争が勃発すると,党をあげて戦争遂行を支持し,翌38年議会の権能を大きく制約する国家総動員法案に対しても反対できなかった。37年に鈴木総裁が辞任して以後,政友会は中島知久平,前田米蔵,鳩山一郎,島田俊雄の4代行委員制の下で運営されたが,中島ら革新派が近衛の新党運動に接近したため党内対立は激化し,39年中島派が強引に中島を総裁に決定したため,鳩山派はこれに対抗して久原房之助を総裁に推し,ここに政友会は両派に分裂した。
これ以後,政友会は軍部の思惑や政府の政党操縦策のために翻弄されて動揺を続け,40年に入って近衛の新体制運動がおこると,久原派が7月16日に解党し,引き続き中島派が30日に解党することになり,政友会は40年に及ぶみずからの歴史に幕を下ろした。
執筆者:宇野 俊一
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…大正時代に政友会と対抗し,政党の世界を2分した政党。第2次大隈重信内閣の末期,与党3派の間に次期政権がらみで合同の動きが始まり,1916年10月10日,寺内正毅内閣成立の翌日,立憲同志会の全代議士を主軸に,中正会の大半と公友俱楽部の半数が加わり,結党した。…
…陶庵と号し,首相となってからの1907年6月には森鷗外,田山花袋,幸田露伴らの文士を東京駿河台の本邸に招いて雨声会と名づけた雅会を開き,これは数年間続いた。 西園寺は1900年の伊藤の立憲政友会創立に参画したが,その直後に枢密院議長となり,一時は臨時首相も務めた。03年に伊藤が山県有朋らの策謀で枢密院議長にまつりこまれると,第2代政友会総裁となり,松田正久と原敬とを総務として党勢立直しに当たらせた。…
…立憲政友会(政友会)から分裂した政党。1921年11月原敬暗殺後,政友会内は,第1次大戦後の不況や普選運動の高揚に対応して財政緊縮や普選問題の解決を企図する高橋是清総裁,横田千之助ら改造派(のち非改革派)と,積極財政・普選反対等の従来の政友会路線を維持しようとする床次(とこなみ)竹二郎,中橋徳五郎ら非改造派(のち改革派)の対立が激化した。…
…96年公使として朝鮮に赴き,閔妃(びんひ)殺害事件のあとの日本勢力回復に努め,翌年大隈がまた外相となったのを機会に退官,大阪財界に迎えられて《大阪毎日新聞》社長に就任,読者を3倍に増やす経営手腕を発揮した。 このあと1900年政友会結成に参画,幹事長を経て第4次伊藤博文内閣の逓信大臣に就任。翌年北浜銀行頭取,さらに05年には陸奥の親戚で井上馨が監督する古河鉱業の副社長になった。…
…したがって日清戦後経営は,軍備拡張をはじめ産業の振興,台湾経営などを推進して日本を帝国主義的な強国に転化させることを課題とし,政府は清国からの巨額の賠償金を軍事費にあてるとともに,政党と公然と提携して各種の増税案や関係諸法案の成立をはかった。とくに1898年に開始された列強による中国分割競争は,日本の支配層に強い危機感を抱かせることになり,1900年の選挙権の拡大や伊藤博文による立憲政友会の創立は,緊迫する極東情勢に対応するために国内体制の再編・強化をめざすものであった。
[日露戦争]
おりから,中国では列国の帝国主義的侵略に反対する民衆反乱として義和団の乱が起こり,北京~天津の間を席捲した。…
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