富来院(読み)とぎいん

日本歴史地名大系 「富来院」の解説

富来院
とぎいん

能登半島中央西側、現富来町南部の福浦ふくら熊野くまの両地区を除く全町域、および現中島なかじま町の釶打なたうち地区を含めた地域に比定される。富来は富木とも書く。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「富来院 拾五町九段八 建保元年検立田定」とみえ、平安時代末期に四一町五反一あった公田が一五町九反八に減少している。成立は郷の解体後、院が置かれた一一世紀初頭と推定され、古代の荒木あらき(和名抄)の「荒」を嘉字「富」に改めたのが院名の由来とされる。成立後の動向は不明であるが、平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて酒見さかみ村・藤懸ふじかけ村・釶打村が分立している(能登国田数注文)高爪たかつめ神社所蔵の建治元年(一二七五)九月九日の年紀をもつ木版彩画懸仏の墨書銘に「富来之院」がみえる。同三年に鎌倉幕府問注所寄人となった富来十郎光行(建治三年記)、同じく永仁三年(一二九五)の富来孫十光康(永仁三年記)は、富来院を名字の地とする武士であったと思われる。貞和二年(一三四六)三月六日、前越中守護井上俊清が富来俊行等を率いて能登に乱入し、「富来院内木尾嶽」に籠城したが、五月四日に得江頼員らによって攻略された(貞和二年五月日「得江頼員軍忠状」得江文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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