私田の対立概念で公有の田土をいう。周の井田制では井字に区切られた中央の一画を,まわりの8区画を保有耕営する8戸が共同で耕作し,その収穫を領主に提供したと伝えられる。秦・漢以降は,帝室直属耕地や軍兵による屯田,あるいは官吏の職田,官庁費用の財源に供する公廨田等種々の土地が公田の範疇に属した。そのほか官用交通の駅田や学校の経費のための学田等もあるが,全体として私田(民田)の面積の1割にも達しなかった。唐代から官田という語が公田の同意に用いられ始める。
執筆者:池田 温
古代・中世を通じて長く用いられた語であるが,時代によって語義を異にする。古代の法律用語としての公田は原則として不輸租田であり,輸租田である私田と区別された。不輸租田である公田には,官田,神田,寺田,駅田,射田,諸衛射田,健児田,采女田,節婦田,膂力婦田,御巫田,布薩戒本田,放生田,学校田,勧学田,典薬寮田,飼戸田,職写戸田,官戸奴婢口分田,救急田,惸独田,船瀬功徳田,造船瀬料田,勅旨田が含まれる。また不輸租・輸地子田である公田には,乗田,無主位田,闕官田,闕郡司職田,闕国造田,闕采女田,闕膂力婦田,未授賜田,没官田,逃亡除帳口分田,出家得度田,遥任国司公廨田などがある。前者のグループはそれぞれ所管ないし受田者が現存している田であるが,後者のグループは所管ないし受田者が未定である,いわゆる無主田である点で異なっている。後者の場合,その田地は賃租して地子を収取した(地子率は10分の2)。養老令は,〈凡そ諸国の公田は,みな国司が郷土の估価に随って賃租し,その価を太政官に送り雑用に充てよ〉と記しているが,平安時代初期9世紀の法律家は,この公田を乗田のことと理解していた。諸国公田の地子は,遅くとも736年(天平8)以降は都に送られて穀倉院の倉庫に集積された。
公田概念は743年の墾田永年私財法の発布を契機として変化し,永年私財田として認められた田が私田,それ以外の田が公田であるとされるようになった。この場合,公田の中核をなすのは乗田と口分田で,百姓墾田,寺田,神田等は散田と総称された。10世紀前半の《延喜式》には,私墾田でも公水(国家的管理下の用水)を用いるものは公田とする,ただし水が豊富で妨げとならないものは私田とすることを許すとあり,公私の別は,公水を用いるか否かによるとしている。平安末期11~12世紀の史料,例えば大和国の興福寺関係の史料には,寺領のうちに〈公田〉と記載されているものがあるが,これは雑役免田を指している。雑役免田は,その田地の官物(かんもつ)・雑役のうち,官物部分のみ国衙が収取し,雑役部分を寺・社・官衙などが収取するもので,大和国の場合,〈官物は国宰に弁じ,雑役は寺家(興福寺を指す)に勤む〉といわれている。
鎌倉時代には,所当官物,一国平均役,御家人役などの賦課基準として政治的に把握され,大田文(おおたぶみ)に記載された田地を公田(くでんと呼びならわしていたらしい)といった。大田文で確定された公田は定公事田とか定田と呼ばれたが,それは郷・保・荘・名田の特定の土地に固定されたものではなく,浮田(ふでん)形態をとり,年貢・課役負担の基準面積が示されたにすぎなかった。室町時代に入っても基本的な体制は変わらず,幕府は段銭賦課の基礎を公田に置いており,守護大名も公田支配を権力の支えとしていた。戦国大名も大田文に基づく公田段銭方式を継承したが,やがて領国支配体制確立の過程で国内検地を行い,検地帳に基づく定田・貫高方式に移行した。
執筆者:阿部 猛
朝鮮の公田は,第2次大戦前には研究者から国家所有地とみなされ,土地国有論(公田論)の有力な根拠とされたが,この説は今日ではほぼ否定されている。高麗の公田は国家が収租権(収穫の25%)をもつ土地であり,一般農民の自作地である民田や公廨田,王室御料地などからなり,国家がおもに両班(ヤンバン)や軍人に支給して収租権(収穫の50%)を与えた私田に対する地目である。高麗中期以降,私的土地所有の発展によって公・私田間のこのような区別は変化し,科田法(1391)では収租率が両者とも同率(10%)となった。李朝の公田は私人に属する民田に対立する地目であり,王室や国家機関に属する収租地である。土地国有論では公田の〈租〉を地代とみなしたが,現在では税とみる見解が有力である。
執筆者:吉田 光男
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「くでん」とも読む。
(1)律令制(りつりょうせい)下において私田に対して用いられた語。令本来の用法では、有主田(田主のある田)が私田、それ以外の無主田(その代表的なものは乗田(じょうでん))が公田であった。しかし、743年(天平15)の墾田(こんでん)永年私財法を契機として公私田概念に変化が生じ、永年私財田として認定された田が私田、それ以外の田が公田とされ、この用法が一般化した。口分田(くぶんでん)はここにおいて公田とされた。
(2)班田制廃絶後の10~11世紀前半においては、一国の土地台帳である国図に登載され、国が田租を徴収する田地を公田とよび、さらに荘園(しょうえん)制の発達した12~13世紀になると、荘園、公領を問わず、その土地台帳に正式に登録され、国衙(こくが)・領家(りょうけ)が年貢・公事(くじ)を賦課する耕地を公田と称した。
[村山光一]
字通「公」の項目を見る。
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「くでん」とも。令本来の用法では,官に属する官田(屯田(みた))や駅(起)田(えきでん),乗田(じょうでん)のような無主田をさす語。無主田のうち乗田のみをさして公田という例もある。しかし8世紀半ば頃からは有主田で私田である口分田(くぶんでん)が公田とされた。初見は759年(天平宝字3)の越中国の東大寺開田図。この用法の変化は743年(天平15)の墾田永年私財法の発令で,班田収授の対象とならない有主田の墾田が出現したことにより,口分田をそれと区別するために生じたとみられる。こうして平安時代まで口分田と乗田をあわせて公田とする用法が一般的になるが,やがて荘園の本格的成立にともない,公領のことを公田とよぶようになった。鎌倉時代には荘園・公領を問わず,公的な検注をへて大田文(おおたぶみ)に記載された定田をさして公田とよぶようになり,所当官物や一国平均役の賦課基準として利用された。室町時代には守護の段銭(たんせん)賦課の基準として利用されるに至る。
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…周の井田制では井字に区切られた中央の一画を,まわりの8区画を保有耕営する8戸が共同で耕作し,その収穫を領主に提供したと伝えられる。秦・漢以降は,帝室直属耕地や軍兵による屯田,あるいは官吏の職田,官庁費用の財源に供する公廨田等種々の土地が公田の範疇に属した。そのほか官用交通の駅田や学校の経費のための学田等もあるが,全体として私田(民田)の面積の1割にも達しなかった。…
…しかし班田はこれを最後にもはや行われず,まもなく政府は国守に検田,徴税,軍事等の権限を大幅にゆだね,朝廷・官司への納物,貴族・寺社の封戸(ふこ)納物等,一定額の貢進物を請け負わせるという,国制の大転換にふみ切った。この結果,基準とされた国図に載せられて固定した公田から,官物(かんもつ)や臨時雑役(ぞうやく)を徴収することになった国守は,富豪の輩や負担にたえうる有力な農業経営者たる田堵(たと)に国内の公田を請け負わせ,それを新たな徴税単位として収取を行うようになっていった。おのずとこの単位は国ごとに多様で,おおよそ畿内とその周辺を中心に西国では,東西南北の方位に分かれた郡や《和名抄》の郷(ごう)をはじめ院・条が見られ,その下に名(みよう)が広範に現れてくるのに対し,東国では方位に分かれた郡・条が基本で,名の単位は明瞭でない。…
…すなわち惣領制が公事勤仕の機能を有していたのである。(4)御家人を単位としてその所領を基準に賦課されたが,その基準となる所領とは,より厳密にいえば所領全体ではなく,御家人の所領内の公田すなわち公事定田と呼ばれる公的に登録された範囲に限定されていた。以上が関東公事について現在定説化されているところであるが,この関東公事は幕府存立の経済的基礎ともなるものであり,幕府としてはこれを負担する御家人所領の減少をおそれ,それを防止するための立法も行っている。…
…また官物の品目は名目上は米であるが,現実の収納にあたっては,国司が必要に応じて米やさまざまの手工業製品(絹,布など)で納めさせるという方式が行われていた。こうした過程をへて11世紀半ばになると律令税目もまったく消滅し,新たな税制〈公田官物率法(こうでんかんもつりつぽう)〉(官物率法)が成立するに至った。 公田官物率法の一例として1122年(保安3)の伊賀国在庁官人の解(げ)(上申書)にみえる同国の制度をあげると,公田段別,見米(げんまい)3斗,准米(じゆんまい)1斗7升2合,油1合,見稲1束,穎(えい)2束となっている。…
…しかし,すでに中田薫が指摘しているように,律令においては,口分田(くぶんでん)は私田とされていた。口分田を公民に班給する班田収授制は,公地公民制の中心的な施策と考えられてきたが,その口分田が律令においては公田でなく私田とされていたのである。このような公田―私田の枠組みは,中国律令からそのまま継受したものであり,中国律令では公は官に,私は民に近似した概念であった。…
…国領とも称した。律令制の口分田(くぶんでん)・公田をその前身とし,平安時代10世紀の国制改革を経て成立した王朝国家体制下の公田に始まる。その支配方式は,国司が国内郡郷の公田数を検田帳や国図によって把握し,〈名(みよう)〉を単位として負名あるいは田堵(たと)と呼ばれる大小の経営者に公田の耕作を請け負わせ,〈名〉の田数に応じて租税官物,諸雑事等を賦課し,これを徴収することを基本とした。…
…口分田以外の田種としては,畿内4ヵ国に合計100町置かれた天皇供御料田としての官田(屯田(みた)),五位以上の有位者に位階に応じて与えられた位田(親王・内親王にも品位に応じて与えられる),国家に功労あるものに与えられる功田(こうでん),大納言以上に与えられる職分田(職田),大宰府および諸国司の史生以上に与えられる在外諸司職分田(公廨田(くがいでん)),郡司の主帳以上に与えられる郡司職分田(職田),および賜田,神田,寺田などがあった。当時は諸種の田地に対し公田・私田の区別がなされていたが,私田とは私人によって用益される有主田(口分田,位田,功田,各種職分田,賜田など),公田とは公的な機関によって用益される無主田(官田,神田,寺田など)のことで,ほぼ田租の輸不に対応していた。公田のうち最大のものは各種の田地を割き取った残りの乗田で,これは1年を限って農民に賃租(ちんそ)され,その地子(じし)が太政官の雑用に充てられた。…
※「公田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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