日本歴史地名大系 「富海村」の解説 富海村とのみむら 山口県:防府市富海村[現在地名]防府市大字富海旧佐波(さば)郡の東南端に位置し、南は周防灘に面し、東は都濃(つの)郡戸田(へた)村(現徳山市)に接する。北西には大平(おおひら)山(六三一・三メートル)がそびえる。西は江泊(えどまり)・牟礼(むれ)の両村。徳山藩領に属する。正治二年(一二〇〇)一一月日の周防国在庁官人置文(東大寺文書)に「富海」とみえる。また応安三年(一三七〇)九月二四日、九州探題として下向する途中、この地を通った今川了俊はその「道ゆきぶり」に「此海づらはなみいとたかし、是より外の海になりぬとぞ申める、やがて浦の名をも外の海(富海)といふ也、磯ぎはよりつゞらおりにのぼる坂有、橘坂とぞいふ」と記している。橘(たちばな)坂はのちの浮野(うけの)垰のことかと思われる。 富海村とどみむら 鳥取県:倉吉市富海村[現在地名]倉吉市富海下大江(しもおおえ)村の東方、小鴨(おがも)川支流富海川の中流域に位置する。富見・留海・留見などとも記した。拝領高は四三八石余、本免は四ツ二分。荒尾氏・隠岐氏、倉吉組士の渡辺氏・向井氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高四七〇石余、竈数二五、牛頭天王(のちの富海神社)・荒神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四九一石余、竈数三六。藪役銀二匁が課されていた(藩史)。正徳五年(一七一五)には倉吉御蔵が火災に遭った際の火消人夫三人が割当てられている(在方諸事控)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報