富里村
ふさとうむら
仲栄真村の北西に位置し、フサトゥと発音する。西の当山村と併称して、フサトゥ・トーヤマという。絵図郷村帳・琉球国高究帳には村名の記載はなく、「琉球国由来記」に村名がみえる。玉城間切番所は現富里地内に置かれていたが、里積記では当山村に置かれたと記され、「琉球国旧記」附巻一〇には「玉城駅(在富里邑)」とある。間切集成図では、当村集落と当山集落の境付近の北東方に玉城間切の番所が描かれている。また同番所から出て南に下り、具志頭間切番所に至る道が当山村と当村の間を通っている。富里地頭には乾隆五二年(一七八七)に向氏富里親雲上朝永、同治五年(一八六六)には向氏富里親方朝顕が任じられ(「中山世譜」附巻)、廃藩の頃は向氏富里朝真であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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