玉城村
たまぐすくそん
面積:一六・八七平方キロ
沖縄島南部の東側に位置する。北は大里村・佐敷町、東は知念村、西は具志頭村に接し、南は太平洋に面する。村域は東西約七キロ、南北約四キロ。村の中央を東から垣花グスク、ミントングスク、玉城グスク(標高一八一・三メートル)、糸数グスクと続く第三紀島尻層群の泥岩類を基盤として石灰岩台地が連なり、台地の南縁は断崖の傾斜地を形成する。崖下には湧水が多く、かつては海岸低地部に水田が広がっていた。当村と具志頭村の境を流れる雄樋川は、大里村境の大城ダムを水源とし、大里村・当村を経て太平洋に流れ出る。河口近くには周囲一・六キロの奥武島が浮ぶ。道路は主要地方道南風原―知念線(県道八六号線)・一般県道四八号線・同一七号線が大里村を経由して当村に入り、村の南部をおおむね東西に横断する国道三三一号に連結する。
百名の海岸ヤハラヅカサに上陸したアマミキョが、丘陵部へ移り住んだ所と伝えられるミントングスクをはじめ、玉城城跡・垣花城跡・糸数城跡など一六ヵ所のグスクが村域で確認されている。
玉城村
たもーしむら
[現在地名]今帰仁村玉城
寒水村の西に位置し、北西は岸本村。寒水村と同様、山間の旧地から一八六二年に移転した村で、移転先は現在も集落がある保加麻原(現外間原)であった(「球陽」尚泰王一五年条)。旧集落は現在プルジマ(古島)とよばれるが、古島原にはウチグスクがあり、このグスク(城)が玉城の地名由来と思われる。万暦二〇年(一五九二)一〇月三日の辞令書(辞令書等古文書調査報告書)に「たまくすくの大やこ」とみえ、与那嶺里主所の田六カリヤ(四九マシ)・畑一四〇ヌキ(七オホソ)などが玉城大屋子に与えられている。
玉城村
たまぐすくむら
[現在地名]玉城村玉城
玉城間切の東部に位置し、南は海に面する。東は百名村、南西は仲栄真村。中城間切に玉城村(現中城村)、今帰仁間切に玉城村(現今帰仁村)がある。集落は台地の南縁の崖下に発達。地内に玉城グスクがあり、同グスク内の雨粒天次(アマツヅティンツヅ)は東御廻り(アガリウマーイ)の主要な霊地である。また玉城グスクの北東方には英祖王統の玉城王の墓所と伝えるタカラグスクがある。
玉城村
いにやーとぅむら
根折村の南東に位置し、隆起珊瑚礁の台地上に形成される。南西は内城村、南は大城村に接する。西部には石橋川の浸食した低地があり、北部には断層線の低地が東西に続く。飲料水は北部の地下水クラゴーに依存していた。地名のイニャートゥは稲作と広場に由来するという。一四世紀に世之主が当地のフバドーに館を構えていたと伝え、のち世之主の居城となった内城や隣接の大城にならって玉城と表記したと考えられる。
玉城村
たまぐしくむら
屋宜村に隣接していたとみられるが、正確な場所は不明。絵図郷村帳に玉城村とある。琉球国高究帳によれば高頭一一六石余、うち田八五石余・畠三〇石余。だが絵図郷村帳の注記によれば一七三六年の絵図郷村帳書写当時には村はなく、「琉球国由来記」「琉球国旧記」などにも村名は記載されない。「南島風土記」はもと二七ヵ村から構成されていた中城間切から玉城村を廃し、熱田・比嘉二村(現北中城村)を新設したとするが、詳細ははっきりしない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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