寒河江庄(読み)さがえのしよう

日本歴史地名大系 「寒河江庄」の解説

寒河江庄
さがえのしよう

平安時代後期から戦国期にかけての摂関家領庄園で、古代出羽国村山郡の南西部にあたり、山形盆地の北西部、現寒河江市・西村山郡を中心とし、最上川の南西部に広がる。関白藤原忠実の日記「殿暦」天仁二年(一一〇九)九月六日条に、白河上皇を迎えて高陽院亭で行われた競馬に「寒河江黒栗毛余馬」を出走させたとある。寒河江庄からの貢馬であろうこの馬は、同月二六日にも走っている。同書同三年三月二七日条には「出羽守光国予庄寒河江庄に乱入」とみえ、庄園収公政策が摂関家領庄園にも及んだことを示す。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に請所として「寒河江年貢沙汰成賢 京極殿領内」があり、鎌倉時代には地頭の請所になり、成賢なるものが地頭からの年貢納入に関与していた。「京極殿領内」の記録は、忠実の祖父師実の庄園であったことを示し、同目録に「宇治殿領事」として「平等院領外称京極殿領是也」とあり、師実の庄園は、父である宇治殿すなわち頼通から相伝されたものと伝える。当庄の成立は、頼通の時代(九九〇―一〇七四)までさかのぼる。庄内の古刹慈恩じおん(現寒河江市)の縁起によると、天仁元年鳥羽天皇の勅を奉じて願西が本願となり、藤原基衡が奉行として釈迦・弥陀両堂を造立したと伝える。当時平泉文化が奥羽全域に及んでいたことから、中尊寺(現岩手県西磐井郡平泉町)との関係も考えられる。また慈恩寺に残る平安時代後・末期の一〇躯に及ぶ仏像は、像によって作風の相違はあるものの、手なれた彫技や洗練された作風からみて、中央仏師の手になるものという。慈恩寺伽藍記(宝蔵院蔵)などによれば、仁平年間(一一五一―五四)造営に際しては、平忠盛が奉行を勤めたとあり、慈恩寺文化が摂関家藤原氏の外護を得て繁栄してきたことを物語る。しかし大江おおえ伏熊ふしくま護真ごしん寺の阿弥陀堂には、平安時代末から鎌倉時代初期と推定される半丈六の木造阿弥陀如来坐像、朝日あさひ新宿久保田あらじゆくくぼたの薬師堂には平安時代後期の木造薬師如来立像があり、この二像は慈恩寺山内宝徳ほうとく寺にある一二世紀の木造観音・勢至菩薩立像とともに、地方仏師の手になると考えられ、文化の水準は高かった。

鎌倉時代になり、当庄の地頭になったのは大江広元である。広元は舅多田仁綱を目代として当庄に派遣し、建久三年(一一九二)広元の嫡子親広が、外祖父多田仁綱の後をうけ寒河江庄を領したとあるが(「安仲坊系図」安仲坊大江文書)、その経過は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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