寿桂尼(読み)じゅけいに

日本大百科全書(ニッポニカ) 「寿桂尼」の意味・わかりやすい解説

寿桂尼
じゅけいに
(?―1568)

戦国大名今川氏親(いまがわうじちか)の正室今川氏輝(うじてる)・義元(よしもと)の母。京都公家(くげ)中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘。1526年(大永6)氏親が没すると幼少の氏輝の代行および後見として尽力。36年(天文5)、氏輝の没後生じた家督争い(花倉(はなくら)の乱)では、太源崇孚(たいげんすうふ)(雪斎(せっさい))とともに実子義元につき、義元の異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)(良真(りょうしん))を倒した。寿桂尼は氏親没後以降、自ら「帰」という印文のある印判を用い、領国支配に関する文書を30点近く発給しているが、これは戦国女性としては異例であり、また『言継卿記(ときつぐきょうき)』の弘治(こうじ)2年(1556)には「大方(おおかた)」とみえるなど、今川氏のなかにあってその政治的立場は重要であった。しかし桶狭間(おけはざま)の戦い以降、今川氏が衰退するなかで永禄(えいろく)11年に没した。

[久保田昌希]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寿桂尼」の解説

寿桂尼 じゅけいに

?-1568 戦国時代,今川氏親(うじちか)の妻。
中御門宣胤(なかみかど-のぶたね)の娘。今川氏輝(うじてる),義元(よしもと)の母。大永(たいえい)6年氏親が没すると,落飾して幼少の氏輝を後見,領国支配文書に名をのこす。氏輝没後の家督争い(花倉の乱)では,義元を擁立した。大方(おおかた)殿,尼御台(あまみだい)とよばれた。永禄(えいろく)11年3月14日死去。

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