江戸後期の地理学者。名は玄珠,字は子玉,通称は源五兵衛。赤水は号。常陸国赤浜村の人。経史詩文に通じたが,地理に最も精通し,召されて水戸藩主の侍読となり,《大日本史》の地理志編集にも関与した。彼が刊行した地図の種類の豊富さおよび後世への影響の大きさは,江戸時代でも例が少ない。おもな作品としては,森幸安の図の模倣ながら刊行図として初めて経緯線を記入した《改正日本輿地路程全図》(1779)をはじめ,清の康煕年間に成った洋式中国全図(《皇輿全覧図》)を利用した江戸時代最大の刊行中国図《大清広輿図》(1785),東洋ではおそらく山河,境域に着彩した最初の歴史地図帳《唐土歴代州郡沿革地図》(1790),直接には原目貞清の図(1720)を改訂したマテオ・リッチ卵形世界図《地球万国山海輿地全図説》(1788ごろ),1785-86年(天明5-6)の幕府第1次蝦夷地調査隊作成図による《蝦夷松前図》(1795ごろ)を挙げることができる。このほか《長崎行役日記》《東奥紀行》などの旅行記,水戸藩領民の漂流についての《安南国漂流記》などがある。
執筆者:有坂 隆道+海野 一隆
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江戸中期の地理学者。名は玄珠、字(あざな)は子玉、通称は源五兵衛。赤水は号。常陸(ひたち)国多賀郡赤浜村(茨城県高萩(たかはぎ)市)の農民の子に生まれたが、学問を好み励んだ。1765年(明和2)近郷出身で安南(ベトナム)漂流民の送還者を迎えに長崎へ赴き、『安南漂流記』『長崎紀行』を著し、地理学に傾注した。1774年(安永3)ほぼ日本の沿岸の実形に即した『日本輿地路程全図(にほんよちろていぜんず)』を作成。1777年水戸藩主の侍講に召され、『大日本史』地理志編纂(へんさん)に加わる。彼は修正に努めて『改正日本輿地路程全図』を1779年大坂で刊行、1785年(天明5)には世界図『地球万国山海輿地全図説』や中国図『大清(しん)広輿図』も刊行した。実測図ではないが、関連文献を深く検討した編著で、いずれも明治初年まで信頼されて版を重ね、広く流布した。
[石山 洋]
1717~1801 地理学者。茨城県高萩市生まれ。農業に従事する傍ら,1739年水戸藩の名越南渓に入門。1752年頃から日本地図編集を構想。水戸彰考館所蔵の日本図,緯度測定値(渋川春海),ポルトラーノ海図による日本略図等を考証し,1779年,経緯線を印画した最初の日本図である『改正日本輿地路程全図』8色刷を刊行。赤水図と呼ばれたこの図は,1871年まで版を重ねた。沿岸線の輪郭の均整がとれ,科学的な地図として,高く評価される。
執筆者:会田 信行
出典 平凡社「最新 地学事典」最新 地学事典について 情報
1717.11.6~1801.7.23
江戸中・後期の地理学者。名は守道,のち玄珠(はるたか),字は子玉,通称源五兵衛,赤水は号。常陸国多賀郡赤浜村の農家の生れ。儒医鈴木玄淳,藩儒名越南渓に師事。奥羽地方を旅したり,近村漁民の漂流者引取りに長崎へ使して見聞を広めた。「日本輿地(よち)路程全図」や「大清広輿図(だいしんこうよず)」などの地図を著す。1777年(安永6)水戸藩主の侍講に抜擢され出府。91年(寛政3)致仕,以後「大日本史」地理志の編修に加わった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…ほかにコンニャク栽培が盛ん。南の多賀郡十王町にまたがって国際電信電話会社茨城衛星通信所があり,赤浜には《改正日本輿地路全図》などを著した江戸後期の地理学者長久保赤水の旧宅がある。【中川 浩一】。…
※「長久保赤水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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