改訂新版 世界大百科事典 「小笠原忠真」の意味・わかりやすい解説
小笠原忠真 (おがさわらただざね)
生没年:1596-1667(慶長1-寛文7)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(福田千鶴)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…当時の城地は明石川河口右岸の船上(ふなげ)城であった。1617年(元和3)小笠原忠真10万石が入封。翌年幕命を受け,夫人の父姫路藩本多忠政が縄張りして赤松山に平山城を築き,10町から成る城下町も建設された。…
…22年(元和8)作成の〈小倉藩人畜改帳〉は江戸初期の農村の状況を今に伝えるものとして貴重である。32年(寛永9)加藤氏の改易により忠利が肥後国熊本に移ったのち,小笠原忠真が播磨国明石より入り,豊前国6郡15万石を支配することになった。小笠原氏小倉藩は同時に成立した豊前中津,竜王,豊後杵築の3藩とともに,外様大藩の蟠踞(ばんきよ)する九州にその監視役として送り込まれた譜代藩である。…
※「小笠原忠真」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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