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江戸幕府第2代将軍(在職1605~23)。家康の第3子。母は西郷(さいごう)氏お愛の方(宝台院)。天正(てんしょう)7年4月7日遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松城に生まれる。幼名は長松、のちに竹千代(たけちよ)と改める。1587年(天正15)従五位下(じゅごいげ)蔵人頭(くろうどのとう)に叙任。1590年豊臣秀吉(とよとみひでよし)に謁し、秀吉の一字を与えられて秀忠と名のる。1592年(文禄1)従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは、別動隊として中山道(なかせんどう)を西上したが、途中真田昌幸(さなだまさゆき)の上田城攻略に手間どり、関ヶ原の戦いに遅れたので家康の怒りを受けた。1605年4月7日、譲られて将軍となったが、実権は駿府(すんぷ)城(静岡市)に移り住んだ大御所家康の手中にあった。大坂冬・夏の陣には家康とともに参加した。1623年(元和9)7月将軍職を家光(いえみつ)に譲り、翌年(寛永1)江戸城西丸(にしのまる)に移ったが、依然実権は大御所秀忠のもとにあった。1626年従一位太政大臣(だいじょうだいじん)。寛永(かんえい)9年1月24日江戸城西丸で没。法号は台徳院(たいとくいん)。江戸増上寺(ぞうじょうじ)に葬る。夫人は浅井長政(あさいながまさ)の第3女お江。淀君(よどぎみ)の妹で、諡(おくりな)は崇源院(すうげんいん)。ツバキやボタンなどの花木を愛し、若いころから茶道の愛好家であったことのほかには、秀忠に関する逸話は律儀さを強調するものが多く、またその幕政上の位置も家康と家光の陰で軽視されてきたきらいがある。しかし、福島正則(ふくしままさのり)など大大名の改易、諸大名の御手伝普請(おてつだいぶしん)による江戸城・大坂城の大強化、キリシタン弾圧、紫衣事件(しえじけん)などにみられる宗教・朝廷の統制強化、南蛮貿易に奉書船制度を創設するなどの政策を通じて、幕藩制的秩序を社会に浸透させた力量はもっと評価されてよい。
[高木昭作]
江戸幕府2代将軍。徳川家康の三男。母は西郷氏於愛の方。幼名長松(長丸とも),また竹千代。法号台徳院。長兄信康が自害,次兄秀康が羽柴(豊臣)秀吉の養子となったので,おのずと世子の地位につく。1590年(天正18)聚楽第において元服,秀吉の偏諱(へんき)を受けて秀忠と名のり,従四位下侍従,秀吉は織田信雄(のぶかつ)の女を養女として秀忠にめあわせた。翌年正四位下左近衛少将,ついで参議,右近衛中将,92年(文禄1)従三位権中納言と昇進,在京時以外は主として江戸城にあって,政務に奔走する父家康の留守を支えた。94年再び秀吉の意志により浅井長政の三女江与(えよ)(於江(おごう),逵子(みちこ)とも,法号崇源院)と結婚,97年(慶長2)長女千姫をもうけ,翌年秀吉の死に先立ち秀吉の子秀頼と千姫の婚約が成立,秀忠の政治的地位は重みを増した。1600年関ヶ原の戦に東山道を西上したが,信州上田城の真田昌幸に遮られて決戦にまにあわず,家康の叱責を受けた。03年家康が征夷大将軍となり,千姫が入輿,秀忠は正二位内大臣。05年2代将軍を継ぎ,駿府の大御所家康との二元政治のもと,東国を中心とした大名の統率に当たった。大坂落城の翌16年(元和2)家康が死去,秀忠は外交権などを将軍のもとに吸収,はじめて大名領知宛行状(あてがいじよう)を発するなど,独自の政治を実施した。秀忠は家康の陰にかくれ,〈守成の人〉の評価が高いが,一門・譜代を含む39大名の改易に象徴される大名統制や,五女和子(東福門院)の後水尾天皇のもとへの入内と二条城行幸を中心とする対朝廷政策,キリシタン禁令の強化と貿易の統制・管理を結合させた外交政策など,徳川将軍権力の強化に果たした役割は大きい。23年家光に将軍を譲り,江戸城西丸にて大御所として後見し,26年(寛永3)従一位太政大臣,32年死去,増上寺に葬られ,正一位を追贈された。生前,花ことに椿を愛し,鉄砲の名手であったと伝え,近年発掘の墓には遺愛の鉄砲1挺が納められていた。
執筆者:朝尾 直弘
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(山本博文)
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1579.4.7~1632.1.24
江戸幕府2代将軍(在職1605.4.16~23.7.27)。初代将軍家康の三男。母は側室宝台院(お愛の方)。遠江国浜松生れ。幼名長松(長麿とも),のちに竹千代。豊臣秀吉の1字を与えられて秀忠。法号台徳院。1605年(慶長10)将軍職を継ぐ。14年従一位右大臣に昇進。15年(元和元)豊臣秀頼を大坂城に滅ぼした後,武家諸法度,禁中并公家諸法度などの法令を発布し,幕藩体制の確立に努めたが,その政策は駿府の大御所家康の影響下にあった。16年家康の死後は直接政務をみた。23年将軍職を家光に譲って大御所となり,江戸城西丸に住した。26年(寛永3)上洛して,従一位太政大臣に昇進。
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…前将軍が隠退後も在職中と同様の実権をもち,政治をとりつづけること。鎌倉時代初めは将軍の父の屋敷を大御所と呼んだが,やがて将軍の父その人,あるいは前将軍をも大御所と呼ぶようになった。大御所政治という言葉は,この点に着目して後世の史家が特定の大御所のそれについてつけた呼び名である。室町幕府3代将軍足利義満は将軍を義持に譲って京都北山の新邸に移ったのち,出家して官職に拘束されない自由な立場から実権を振るったが,これを大御所政治と呼ぶ史家は少ないようである。…
…大坂の陣(1614‐15)に豊臣方に荷担,落城後塞していたが,やがて抜群の実力と人気によって復活し(金剛座から分離独立し),北七大夫を名のった。ことに,その新鮮な芸風を愛した将軍徳川秀忠の強力な後援を背景に1619年(元和5)ごろ,従来の四座のほかに特に一流の創設を認められた。〈七大夫流〉ともいい,座付(ざつき)の三役を正式には持たず,〈四座一流〉と併称されて明治に及んだ。…
…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…
…江戸初期の大名。徳川家康の側近。家康・秀忠の2代にわたって,のちの大老または老中に相当する役割を果たした。正信の長男。幼名は千穂,のち弥八郎を襲名。幼時から家康に近侍し,すでに83年(天正11)には家康の文書の取次ぎを務めている。1600年(慶長5)関ヶ原の戦に家康に供奉し,戦後家康が大坂城西の丸に入って以降,側近として国政に参画。01年,従五位下上野介。とくに07年家康の駿府引退以後は側近第一人者として万事をとりしきり,その権勢は,秀忠の側近に配置された父正信とともに〈父子あいならびて天下の権をとる〉(新井白石《藩翰譜》)と後世評された。…
※「徳川秀忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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