小野塚与澄(読み)オノヅカ ヨチョウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「小野塚与澄」の解説

小野塚 与澄
オノヅカ ヨチョウ


職業
僧侶 声明・事相家

肩書
真言宗豊山派大僧正,東京専修学院院長

本名
小野塚 与三次

生年月日
明治8年 5月15日

出生地
新潟県 三島郡深才村(長岡市)

学歴
真言宗新義派大学林〔明治32年〕卒

経歴
11歳で新潟県岩塚村の金剛寺風間賢澄について得度、明治27年同寺で灌頂を受けた。奈良長谷寺、高野山でも学んだ後、初瀬専門中学林教授、真言宗豊山派伝道講習所助教授。その間、長谷寺の古書、古文献などを調べ、声明・事相家の素養を積んだ。40年豊山大学予科教授、45年同本科教授となり宗乗を講じる。大正2年同派法式調査会委員として「豊山法則集、要導法抄」(全3巻)を編纂、法式調査局主査となり、声明・事相の伝授に従事。13年権田雷斧の随員として中国に渡り、灌頂授法の準備に指揮をとった。14年集議、昭和7年雅楽研究会創設、9年東京専修学院院長、19年大僧正。新長谷寺に豊山派修道院を主宰し、声明家の養成につとめた。編著書に「豊山派法則集」、録音に伊庭孝編「日本音楽史」など。

没年月日
昭和22年 1月19日 (1947年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「小野塚与澄」の解説

小野塚 与澄
オノヅカ ヨチョウ

明治〜昭和期の僧侶,声明・事相家 真言宗豊山派大僧正;東京専修学院院長。



生年
明治8年5月15日(1875年)

没年
昭和22(1947)年1月19日

出生地
新潟県三島郡深才村(現・長岡市)

本名
小野塚 与三次

学歴〔年〕
真言宗新義派大学林〔明治32年〕卒

経歴
11歳で新潟県岩塚村の金剛寺風間賢澄について得度、明治27年同寺で灌頂を受けた。奈良長谷寺、高野山でも学んだ後、初瀬専門中学林教授、真言宗豊山派伝道講習所助教授。その間、長谷寺の古書、古文献などを調べ、声明・事相家の素養を積んだ。40年豊山大学予科教授、45年同本科教授となり宗乗を講じる。大正2年同派法式調査会委員として「豊山法則集、要導法抄」(全3巻)を編纂、法式調査局主査となり、声明・事相の伝授に従事。13年権田雷斧の随員として中国に渡り、灌頂授法の準備に指揮をとった。14年集議、昭和7年雅楽研究会創設、9年東京専修学院院長、19年大僧正。新長谷寺に豊山派修道院を主宰し、声明家の養成につとめた。編著書に「豊山派法則集」、録音に伊庭孝編「日本音楽史」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小野塚与澄」の解説

小野塚与澄 おのづか-よちょう

1875-1947 明治-昭和時代の僧。
明治8年5月15日生まれ。真言宗新義派大学林卒業後,長谷(はせ)寺,高野山でまなぶ。明治40年豊山大教授。大正2年豊山派の法式調査局主査,昭和9年東京専修学院長となる。19年大僧正。昭和22年1月19日死去。73歳。新潟県出身。著作に「二箇法要法則」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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