日本歴史地名大系 「居組村」の解説 居組村いぐみむら 兵庫県:美方郡浜坂町居組村[現在地名]浜坂町居組釜屋(かまや)村の西、因幡国境に位置し、西は七坂八(ななさかや)峠を越えて同国岩井(いわい)郡陸上(くがみ)村(現鳥取県岩美町)。七坂八峠越の道は但馬浜街道ともよばれた。北は海(日本海)に面し、集落は結(むすぶ)川の河口周辺に発達。集落の北方で半島状の小岬(亀山)が海に突出し、この岬の西方には小島(不動山)が浮ぶ。漁業が中心の村方で、伊含・井含とも書いた。鎌倉時代には京都長講堂領大庭(おおば)庄のうちで、弘安八年(一二八五)の但馬国太田文では同庄の「案主併伊含下司」として御家人宮井太郎兵衛盛長の名がみえ、盛長には「伊含浦下司給 一町」が与えられていた。また大庭庄の庄田七四町五反一一四歩に「加伊含浦定」の注がある。伊含浦とあり、早くから港湾的要素を備えていた点が注目される。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「つなかけいくミ」とみえ、当地には孫左衛門殿・小谷殿や岡本善左衛門尉殿ほか岡本姓の一族が住していた。「つなかけ」(綱掛)は亀(かめ)山と不動(ふどう)山の間の泊地で、但馬国太田文の伊含浦は同所をさしていると思われる。清富相応峰(きよどめそうおうみね)寺の過去帳の永禄一〇年(一五六七)分には「井含ノ谷村兵衛太郎ノ親 道玉」の名がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報