豊岡藩(読み)とよおかはん

藩名・旧国名がわかる事典 「豊岡藩」の解説

とよおかはん【豊岡藩】

江戸時代但馬(たじま)国城崎(きのさき)郡豊岡(現、兵庫県豊岡市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は稽古堂(けいこどう)。1580年(天正(てんしょう)8)、羽柴秀吉豊臣秀吉(とよとみひでよし))の但馬征伐後に宮部継潤(けいじゅん)が入封(にゅうほう)、その後は木下重堅(しげかた)、尾藤知定(びとうともさだ)、明石助実(あかしすけざね)を経て、98年(慶長(けいちょう)3)に杉原長房(ながふさ)が2万石で入封して立藩。長房関ヶ原の戦いで西軍に属したが、秀吉の正室高台院(こうだいいん)(おね)の従弟であり、また妻が浅野長政(ながまさ)の娘でもあったため所領を安堵(あんど)された。杉原氏は3代重玄(しげはる)に嗣子(しし)がなく断絶。1654年(承応(じょうおう)3)に天領となり、68年(寛文(かんぶん)8)、京極高盛(きょうごくたかもり)が丹後(たんご)国田辺から転封(てんぽう)(国替(くにがえ))して3万3000石を領した。以後、明治維新まで9代にわたって京極氏が治めた。1871年(明治4)の廃藩置県で豊岡県となり、76年兵庫県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊岡藩」の意味・わかりやすい解説

豊岡藩
とよおかはん

但馬(たじま)国城崎(きのさき)郡豊岡(兵庫県豊岡市)に置かれた外様(とざま)大名京極(きょうごく)氏の藩。1580年(天正8)羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の但馬征伐後、宮部継潤(みやべけいじゅん)が入部、のち木下重堅(しげかた)、尾藤知定(びとうともさだ)、明石助実(あかしすけざね)、杉原長房(ながふさ)などが交代、一時天領となった。1668年(寛文8)丹後(たんご)(京都府)田辺より京極高盛が3万3000石余で入封、高住(たかずみ)、高栄(たかよし)、高寛(たかのり)と続いたが、1721年(享保6)高寛が若死にして一時除封となった。その後、弟高永(たかなが)が26年襲封し、城崎郡で1万石、飛び地美方(みかた)郡で5000石余となった。以後、高品(たかかず)、高有(たかあり)、高行(たかゆき)、高厚(たかあつ)と続き、1871年(明治4)廃藩置県によって豊岡県となり、のち兵庫県に編入。1678年(延宝6)藩札を発行、財政難に苦しみ1798年(寛政10)、1825年(文政8)大一揆(いっき)が起こった。ことに杞柳(きりゅう)生産が盛んで柳行李(やなぎごうり)などの加工業も進み、大坂へ多く送られた。

[小林 茂]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊岡藩」の意味・わかりやすい解説

豊岡藩
とよおかはん

江戸時代,但馬国 (兵庫県) 豊岡地方を領有した藩。最初は杉原氏2万石で,承応2 (1653) 年杉原氏は除封され,代って寛文8 (68) 年京極氏が3万 5000石で入封,享保 11 (1726) 年減封により1万 5000石となり廃藩置県にいたった。外様,江戸城柳間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「豊岡藩」の解説

豊岡藩

但馬国、豊岡(現:兵庫県豊岡市)を本拠地とした外様の小藩。もとは杉原氏の支配地。その後、寛文年間に丹後国からの国替えにより3万3000石で入封した京極氏が藩主となり、明治維新まで存続した。

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世界大百科事典(旧版)内の豊岡藩の言及

【但馬国】より

…下って66年(寛文6)小出氏がさらに分知して倉見・大藪・山本に陣屋をおく3旗本小出の知行地が生まれ,73年(延宝1)にも分知して土田(はんた)の小出が生まれている。こうして所領配置は定着期に入り,豊岡藩は杉原氏が絶家したため68年入封した京極氏で定着した。また96年(元禄9)にいたって出石藩小出が断絶したため,97年松平忠周が出石に入封している。…

※「豊岡藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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