浜坂村
はまさかむら
[現在地名]浜坂町浜坂
現浜坂町域の北部中央、岸田川の左岸にあり、西は芦屋村。北流して同川河口付近に注ぐ味原川の西側には町場が形成されていた。この町場は織豊期から江戸時代初期にかけて二方郡を領有した宮部継潤や旗本宮城氏が、その支配の拠点とした芦屋陣屋の陣屋町として整備したもので、同陣屋の廃止後も当村は在郷町として賑いをみせ、村内には多くの商人・職人が住していた。なお江戸時代の村絵図や明治初年の地籍図(いずれも浜坂町役場蔵)でみると味原川に沿った砂洲上(東側の水田面より三―三・五メートルほど高い)に一本街路があり、その左右に短冊型地割が顕著にみられる。その範囲は現在の本町・中本町・清水町・老松町・京口町・寺町・門陀町の区域にあたり、この区域を寺院群(西光寺・勝願寺・栄福寺・満願寺)が取り囲んでいるようである。芦屋陣屋と武家屋敷は宮谷川(内堀)に囲まれた中にあり、山下(陣屋町)にあたる当地の町場は味原川(外堀)と宮谷川に囲まれた中に形成されていると判断される。文献的な裏付けはないものの、芦屋陣屋とその山下は内堀と外堀をもつ総郭型を呈しているところから、近世の浜坂の町場も織豊期に起源をもつものと考えることができる。
弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「はま坂」とみえ、当地には「もり和泉殿」や佐々木三郎左衛門殿・湊兵衛殿などが住していた。また清富相応峰寺の過去帳の永禄八年(一五六五)分には「浜坂ノ田口四郎左衛門 道了 逆修」「浜坂ノイゴ衛門 道善」などとみえる。ところで戦国期から近世初頭にかけて当村は下田・下雅意・松岡・湊兵衛・田口・矢兵衛の六軒衆によって経営されていたと伝える。前掲にしかた日記や相応峰寺過去帳で湊兵衛や田口氏の存在が確認できるが、この六軒衆はいわゆる土豪的な存在で、商人としての側面も有していたと推定される。慶長六年(一六〇一)因幡国若桜藩領、同一〇年頃一部が旗本宮城領となる。元和三年(一六一七)若桜藩主山崎家治の備中国成羽(現岡山県成羽町)への移封に伴って但馬国の同藩領は収公され、当村は幕府領と宮城領の相給となった。寛永四年(一六二七)宮城氏は加増されて二方郡全域を領有、当村もすべて宮城領となるが、同二〇年宮城氏が無嗣断絶となると幕府領に転じた。
浜坂村
はまさかむら
[現在地名]鳥取市浜坂一―七丁目・浜坂東一丁目・浜坂・港町
鳥取城下の北方、湯所村の北西に位置する。但馬往来沿いに集落がある。千代川右岸の最下流で、袋川(旧袋川)との合流点付近を占める。村北側の浜坂砂丘(鳥取砂丘)は日本海に面し、砂はしばしば砂丘の中を通る但馬往来を覆い隠した。「因幡志」は「沙漠渺茫として往々道を取失ふことあり、よりて所々に表木を立て往来の便となす」と記し、一里塚があったとしている。村の北東にある多鯰ヶ池の北側を抜けると、岩井郡湯山村(現福部村)に至る。拝領高は四二九石余、本免六ツ一分。安政五年(一八五八)の生高五一七石余、物成二八二石余。山役米三石余・藪役銀二匁余が課されていた(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。天保三年(一八三二)の山林反別は一一町七反余(藩史)。「因幡志」によれば家数七五、安政五年の村々生高竈数取調帳では竈数七八。
浜坂砂丘に連なる当村の領分には昼食山・都築山・代々山・荒神山・伴山などの山がある。羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、秀吉側の高野駿河守が昼食山に、青木勘兵衛が代々山に陣を構えたという(因州記)。都築山は享和三年(一八〇三)鳥取顕功寺(現廃寺)の拝領地となり、顕功寺山ともよばれた(因府年表)。代々山は道場山・水神山ともよばれ、大筒小屋が設けられていた(因州記)。「鳥府志」によると、最も西にある伴山(古名放れ山)の名称は安永(一七七二―八一)の頃三〇〇石取の伴九郎兵衛が、同山に別荘を結び周辺に植林したことにちなんで付けられたもので、その東方、千代川の川辺にある浜坂新田は天明年間(一七八一―八九)の飢饉時に彼が難民を別荘に収容し、開墾させたことに始まると伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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