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細川幽斎 ほそかわ ゆうさい

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美術人名辞典の解説

細川幽斎

安土桃山・江戸前期の大名・歌人。三淵晴員の子。名は藤孝、別号に玄旨、兵部大輔と称する。細川元常の養子となり、足利義晴に仕える。その死後義昭を奉じて織田信長を頼った。豊臣秀吉徳川家康にも重臣として遇せられ、丹後田辺城主となった。和歌を能くし、家集に『衆妙集』、著書に『百人一首抄』等多数がある。慶長15年(1610)歿、77才。

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デジタル大辞泉の解説

ほそかわ‐ゆうさい〔ほそかはイウサイ〕【細川幽斎】

[1534~1610]安土桃山時代の武将・歌人。名は藤孝。足利義晴義輝義昭に仕え、のち織田信長豊臣秀吉徳川家康に重用された。歌人としても有名で、三条西実枝から古今伝授を受けた。著「衆妙集」「詠歌大概抄」「百人一首抄」など。

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百科事典マイペディアの解説

細川幽斎【ほそかわゆうさい】

安土桃山時代の武将,古典学者,歌人。足利幕臣三淵晴員(はるかず)の子。細川元常の養子となる。本名を藤孝(ふじたか),法名を幽斎玄旨という。足利義晴・義輝,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康に仕えた。
→関連項目烏丸光広木下長嘯子貞徳二条家(歌の家)細川氏細川忠興

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

細川幽斎 ほそかわ-ゆうさい

1534-1610 戦国-江戸時代前期の武将,歌人。
天文(てんぶん)3年4月22日生まれ。三淵晴員(みつぶち-はるかず)の次男。伯父細川元常(もとつね)の養子。細川忠興(ただおき)の父。足利義晴(よしはる)・義輝(よしてる),織田信長につかえ丹後田辺城主となる。のち豊臣秀吉,徳川家康につかえる。和歌を三条西実枝(さねき)にまなび,古今伝授をうけて二条家の正統をつたえた。有職(ゆうそく)故実,書道,茶道にも通じた。剃髪(ていはつ)して幽斎玄旨と号した。慶長15年8月20日死去。77歳。京都出身。名は藤孝。一時長岡姓を称す。著作に「百人一首抄」,歌集「衆妙集」など。
【格言など】少し歌学をせよ。年老いて後の楽しみに成るものなり(長男,忠興にいったことば)

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朝日日本歴史人物事典の解説

細川幽斎

没年:慶長15.8.20(1610.10.6)
生年:天文3.4.22(1534.6.3)
戦国時代の武将。三淵晴員を父として生まれるが,母は将軍足利義晴の側室(清原宣賢の娘)で,実父は義晴ともいう。天文8(1539)年,義晴の命で和泉半国守護家の細川元常の養子となり,同15年,義晴の子義藤(義輝)より諱の1字をもらって藤孝と名乗る。義晴,義藤が京都での戦乱を避けて近江に亡命した際これに同行する。同23年,元常の死により家督を相続。永禄8(1565)年将軍義輝が暗殺されると,義輝の弟一条院覚慶(義昭)を大和興福寺より救出して近江甲賀郡へ導き,若狭武田氏,越前朝倉氏らを頼って流浪する。同11年,織田信長の援助を得て義昭の上洛に成功。天正1(1573)年に義昭が信長に京都を追われたのちは信長の家臣となり,西岡(長岡)の地を得て長岡姓を称した。同8年丹後に入国。明智光秀の娘を子忠興の妻とするが,同10年の本能寺の変では光秀の誘いを断わり,剃髪して幽斎玄旨と号し,丹後田辺城に隠居。同13年,二位法印。翌年豊臣秀吉より西岡に3000石を与えられ,九州攻め,小田原攻めにも参加。文禄の役では肥前名護屋,薩摩などに赴く。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では徳川家康方につき,7月18日より田辺城に籠城して敵の兵を引き留めたが,三条西実枝に古今伝授を受けた幽斎が戦死して古今和歌集の秘奥が断絶するのを憂えた後陽成天皇が開城の勅使を遣わしたこともあり,9月17日出城。当代屈指の文化人であったが,その素養は母方の清原家で養育された際培われたものと思われる。<参考文献>細川護貞『細川幽斎』,『綿考輯録』1巻

(石田晴男)

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大辞林 第三版の解説

ほそかわゆうさい【細川幽斎】

1534~1610) 安土桃山時代の武将・歌人。名は藤孝。三淵晴員の子。細川元常の養子。忠興の父。剃髪して玄旨・幽斎と号す。はじめ足利家のち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕える。和歌を三条西実枝に学び、古今伝授を受け、二条派の正統を継承。近世歌学の祖と称さる。著「聞書全集」「耳底じてい記」「詠歌大概抄」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

細川幽斎
ほそかわゆうさい

[生]天文3(1534).4.22. 京都
[没]慶長15(1610).8.20. 京都
室町時代末期~安土桃山時代の武将,歌人。初め三淵氏,のち長岡氏を称した。通称,万吉,与一郎。諱,藤孝。別号,玄旨。室町幕府 12代将軍足利義晴の庶出4男ともいう。将軍義輝の命で細川元常の養子となり,義輝没後は,義昭を奉じ,さらに織田信長,豊臣秀吉,徳川家康に仕えた。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

細川幽斎
ほそかわゆうさい
(1534―1610)

安土(あづち)桃山期の武将、歌人。近世細川家初代。天文(てんぶん)3年4月22日、三淵晴員(みぶちはるかず)の二男に生まる。一説に足利(あしかが)12代将軍義晴(よしはる)の四男。幼名万吉、与一郎と称す。1539年(天文8)細川元常(もとつね)の養子となり、46年、13代義輝(よしてる)(初名義藤(よしふじ))の一字をもらい藤孝(ふじたか)という。73年(天正1)織田信長から山城(やましろ)国(京都府)長岡の地を与えられ長岡姓を称す。80年丹後(たんご)国(京都府)宮津に居城。82年本能寺の変で剃髪(ていはつ)し幽斎玄旨(げんし)と称し、嫡子忠興(ただおき)に譲って丹後田辺(たなべ)城に移る。のち豊臣(とよとみ)秀吉の下で活躍。三条西実枝(さねえだ)に歌、千利休(せんのりきゅう)に茶を学び奥儀を極める。関ヶ原の戦いで石田三成(みつなり)方に攻められ田辺に籠城(ろうじょう)、死を決したが、歌道の絶えることを恐れた後陽成(ごようぜい)帝の勅命で和睦(わぼく)、古今伝授は八条智仁(としひと)親王に無事伝えられた。『詠歌大概抄(たいがいしょう)』『伊勢(いせ)物語闕疑抄(けつぎしょう)』『衆妙(しゅうみょう)集』の著あり、有職故実(ゆうそくこじつ)にも詳しい。子忠興は、関ヶ原の戦功で豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)三十九万余石を与えられた。慶長(けいちょう)15年8月20日京都に没す。京都南禅(なんぜん)寺天授庵(てんじゅあん)に葬られる。追福のため、忠興は小倉(こくら)(福岡県北九州市)に泰勝院を建て、肥後(熊本県)入国後に移して泰勝寺とした。[森田誠一]
『土田将雄著『細川幽斎の研究』(1976・笠間書院)』

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世界大百科事典内の細川幽斎の言及

【歌論】より

…なお,室町期には連歌が隆盛するが,理論面でも心敬の《ささめごと》,宗祇の《吾妻問答》等,みるべき連歌論を生み出したのであった。
【近世】
 織田信長,豊臣秀吉,徳川家康に重臣として遇せられた細川幽斎は,二条派の歌人で,《詠歌大概抄》ほかの〈歌論〉がある。幽斎が古今伝授の唯一人の維持者であったために,田辺城が石田三成に包囲されたおり,勅命によって救命されたエピソードは有名である。…

【源氏物語】より

…その子孫が公条(きんえだ)―実澄(さねずみ)(実枝)―実条であり,彼らの手で《明星抄》《山下水(やましたみず)》が成った。実枝の甥の中院通勝(なかのいんみちかつ)が細川幽斎の協力を得て完成した《岷江入楚(みんごうにつそ)》もこの学統を受けたもので,中世古注の集大成である。なお室町末から江戸初期にかけては,ほかに《覚勝院抄》《孟津(もうしん)抄》《紹巴(じようは)抄》などの古注があり,特に《湖月抄》は簡便な注によって,永く標準的な流布本の位置を占めた。…

【古今伝受(古今伝授)】より

…《古今和歌集》に関する秘伝の授受。中世の学問芸能では,特に重要な部分を秘伝として伝承することが多かった。歌学においては《源氏物語》や《伊勢物語》などの秘伝が伝えられたが,その中で最も権威をもっていたのが古今伝受である。《古今和歌集》は和歌の規範とされていたため早くからその解釈に説が分かれ,六条家や御子左家(みこひだりけ)など歌道の家々には,それぞれの解釈が秘伝として伝えられていた。室町時代に入って二条家の末流である東常縁(とうのつねより)が,東家に伝わる秘伝のほかに頓阿の流れをくむ尭孝の秘伝をあわせて,いわゆる古今伝受の原型をつくった。…

【細川藤孝】より

…戦国末期~近世初頭の武将,文化人。三淵晴員の子で,細川元常の養子。兵部大輔,幽斎玄旨と号する。足利義輝の御供衆であったが,義輝が松永久秀らに殺されるにおよび,その弟一乗院覚慶(義昭)を擁立。1568年(永禄11)織田信長入京のときには足利軍の大将として奮戦,山城勝竜寺城城主となる。義昭と信長不和のときは信長にくみし,姓を長岡と改める。その後は,おもに明智光秀とともに丹波,丹後の攻略に当たり,80年(天正8)丹後の国主となる。…

※「細川幽斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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