朝日日本歴史人物事典 「山本貞一郎」の解説
山本貞一郎
生年:享和3(1803)
幕末の尊攘派志士。名は要人,弘素,通称芳次郎,信右衛門,貞一郎。信濃国筑摩郡松本(松本市)の大庄屋兼飛脚問屋および酒造・薬種業を営む近藤茂左衛門弘美と雪の次男。茂左衛門弘方の弟。伊那郡山本村(飯田市)の旗本近藤石見守家老久保田弘忠の養子となるが,養父の死後江戸に出る。開港前後から尊攘論を唱え,生家の縁で江戸の水戸藩邸に出入りしていたことから藩主徳川斉昭にも知られた。安政5(1858)年斉昭の内命を受け,名を砂村六次と変えて兄弘方と共に京都で志士活動に入る。水戸藩に幕政改革の主導権を認める密勅の降下には成功したものの,幕府の厳しい取り締まりに逃亡を断念して自殺。<参考文献>唐沢貞次郎『贈位記念近藤山本両志士小伝』
(高木俊輔)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報