デジタル大辞泉
「ギュツラフ」の意味・読み・例文・類語
ギュツラフ(Karl Friedrich August Gützlaff)
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出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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ギュツラフ
没年:1851.8.9(1851.8.9)
生年:1803.7.8
19世紀半ばの最初の聖書和訳者,宣教師。プロシアに生まれ,ベルリンで伝道教育を受け,オランダ伝道会より1823年にバタヴィアに派遣されるが,ロンドン宣教会に転じ,シャムなどで伝道ののち,マカオを拠点とする。1833年朝鮮,台湾,琉球を訪ね,日本開教の志を抱き,マカオに送られていた尾張漂流民の岩松らの協力を得て,1837年最初の邦訳聖書『約翰福音之伝』,次いで『約翰上中下書』をシンガポールで出版した。同年,岩松らとモリソン号に同乗し日本を訪ねようとしたが,神奈川沖,鹿児島で砲撃を受け引き返した。アヘン戦争で通訳として活躍,その後香港政庁商務官となる。語学に秀でた当代随一の東アジア通。だが,英国の軍事力を背景に,多くの中国人を雇い,聖書などを配布する性急で荒い伝道方式は欧米で批判の対象ともなる。2番目の妻メリーの塾はモリソン学校の源流。その甥H.S.パークスは英駐日全権公使。<参考文献>都田恒太郎『ギュツラフとその周辺』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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ギュツラフ
Karl Friedrich August Gützlaff
生没年:1803-51
ドイツ,プロイセン生れの宣教師,東洋学者,最初の聖書邦訳者。漢名,郭実猟。オランダ伝道協会からバタビアに派遣され,のちにシンガポール,タイさらにマカオへ移る。1835年R.モリソンの跡をついでイギリス商務省監督官,通訳となる。37年(天保8)モリソン号の通訳として浦賀に来航,日本との通交をはかったが拒まれてマカオに帰着。漂流民から習得した日本語により,同年邦訳の《約翰(ヨハネ)福音之伝》《約翰上中下書》をシンガポールで刊行した。
執筆者:波多野 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ギュツラフ
Gützlaff, Karl Friedrich August
[生]1803.7.8.
[没]1851.8.9. ホンコン
ドイツのプロテスタント宣教師。オランダ伝道協会からジャワに派遣され (1826) ,シンガポールを経てシャムへ行き,伝道のかたわら新約聖書のシャム語訳に従事。マカオで漂流日本人水夫から日本語を学び日本伝道を志してモリソン号で来日したが上陸できず (37) ,最初の日本語訳『約翰福音之伝』 (ヨハネ福音書) ,『約翰書翰』 (ヨハネ書) をシンガポールで刊行した (39~40頃) 。主著"Bericht einer Reise von China nach England" (51) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ギュツラフ Gützlaff, Karl Friedrich August
1803-1851 ドイツの宣教師。
1803年7月8日生まれ。ロンドン宣教会。マカオで漂流民岩松らから日本語をならう。1837年(天保(てんぽう)8)最初の日本語訳聖書「約翰(ヨハネ)福音之伝」などをシンガポールで出版。同年アメリカ船モリソン号の通訳となり神奈川沖,鹿児島湾に来航したが,外国船打ち払いで砲撃されて退去。1851年8月9日死去。48歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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