小堀遠州を流祖とする茶道の流派の一つ。古田織部のあとをうけて将軍家光の茶道師範となった遠州が,大名茶全盛の時代に台子を中心とした〈きれいさび〉の茶法を開いた。それは古典美を発揚した茶室,鎖の間,書院を一体化する建築にあらわされ,その茶法は藤原定家を敬慕するところから出た王朝趣味にもとづいている。また大名茶を推し進めていくなかで,茶の湯の道は人倫の道に通じるとする精神は,《書捨(かきすて)の文》に表現されている。この茶法が代々受け継がれ,現代に至っている。遠州の嫡男正之(1620-74・元和6-延宝2)は宗慶と号し,1647年に父の遺領を継ぎ,近江小室に居館した。このおり立花丸壺,牧谿筆《朝陽図》など13点の道具を父の遺物として将軍家に献じている。遠州の第3子政尹(まさただ)(1625-94・寛永2-元禄7)は権十郎と称し,道具の目利きとして広く知られている。遠州流ではその後7世備中守政方(まさみち)(1742-1803)に至って,伏見奉行在勤中に一時罪を得て,1788年(天明8)領地を没収され,大久保加賀守忠顕に預けられるという事態が起こった。そして没する1803年に御預け御免となり,遠州流は復興した。あとを継いだ8世政優(1786-1867)は宗中と号し,1828年本家小堀氏の名跡を復興して中興となった。
執筆者:筒井 紘一
小堀遠州が遠祖であるとするが,直接の祖としては明和年間(1764-72)の春秋軒一葉が挙げられている。江戸末期には本松斎一得の浅草遠州と,春艸庵一枝の下町遠州との2派があり,江戸において盛行していた。遠州の名を冠してはいるがその道統は直接小堀遠州とは結びついてはいない。茶の湯の抛入(なげいれ)花が規矩を定めいけばなとしての形をととのえ,やがて遠州流は立花(りつか)様式の強い影響をうけて,曲の多い独特の生花を成立させた。
執筆者:工藤 昌伸
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小堀遠州(1579―1647)を流祖とする茶道の流派の一つ。古田織部(おりべ)の跡を受けて徳川3代将軍家光(いえみつ)の茶道師範となった遠州が、大名茶全盛の時代に台子(だいす)を中心とした「きれいさび」の茶法を開いたといわれる。それは、古典美を発揚した茶室、鎖の間(くさりのま)、書院を一体化する数寄屋(すきや)建築に表され、その茶法は藤原定家(ていか)に私淑するところから出た王朝趣味に基づいている。その精神は、茶の湯の道は人倫の道に通じるとする「書捨(かきすて)の文(ふみ)」によって知ることができる。これが子孫に受け継がれ、現在に至っている。2世正之(まさゆき)(1620―1674)は遠州の嫡子。父の遺領を継いで近江(おうみ)小室(こむろ)に居館した。このおり立花丸壺(つぼ)、牧谿(もっけい)筆『朝陽図』など13点の道具を父の遺物として将軍家に献じている。宗慶と号す。その弟政尹(まさただ)は権十郎の名で知られている。3世和泉守政恒(いずみのかみまさつね)(1649―1694、宗実)、4世遠江守(とおとうみのかみ)政房(1685―1713、宗瑞(そうずい))、5世備中守(びっちゅうのかみ)政峰(1690―1760、宗香)、6世大膳亮政寿(だいぜんのすけまさひさ)(1734―1804、宗延)を経て、7世備中守政方(まさみち)(1742―1803、宗友)は5世政峰の六男として生まれ、備中守、和泉守と号して伏見奉行(ふしみぶぎょう)を務めた。在勤中に罪を得た政方は、1788年(天明8)領地を没収され、大久保加賀守忠顕(ただあき)に預けられたが、没年の1803年(享和3)にお預け御免となる。8世政優(まさやす)(1786―1867)は6世政寿の子として生まれ、宗中と号す。1828年(文政11)本家小堀氏の名跡を復興して中興となる。以後、9世正和(まさかず)(1812―1864、宗本)、10世正快(まさのり)(1858―1909、宗有)、11世正徳(まさのり)(1888―1962、宗明)、12世正明(まさあき)(1923― 、宗慶)、13世正晴(まさはる)(1956― 、宗実)と続く。
[筒井紘一]
『森蘊著『小堀遠州』新装版(1988・吉川弘文館)』
江戸時代に創流されたいけ花流派の一つ。遠州流の祖は『瓶花群載(へいかぐんさい)』(1770)に載っている春秋軒一葉(しゅんじゅうけんいちよう)があげられているが、遠州流の明記はなく、彼の伝書『生花正伝記(いけばなしょうでんき)』(1776)に「織部公より遠州公伝りたまひて」とあるところから祖とするも、小堀遠州との関係は確かでない。今日の遠州流は本松斎一得(ほんしょうさいいっとく)の通称浅草遠州と春艸庵一枝(しゅんそうあんいっし)の下町遠州からの分流で、これからさらに分派した遠州流をひっくるめ総括的に遠州流とよぶ。
江戸生花(せいか)流派として形体が円球形をとり、流麗な枝のつくる曲線が、江戸の粋(いき)に通うものがあり、もてはやされた。
[北條明直]
『今井一甫著『遠州流挿花』(2002・文芸社)』
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…享保期から明和・天明期(1764‐89)にかけては,抛入花から生花へと日本のいけばなが変化をとげる過渡期であって,抛入花と立花の優劣論や,寛延年間(1748‐51)の落帽堂暁山のごとく五常の道を説き〈義あつて花を生くればいけはななり〉などの所論を重ねて,草木の出生(しゆつしよう)を明らかにし,それに従って花を生けるこそ本義であるとする,安永・天明期(1772‐89)の是心軒一露の《草木出生伝》の出現までの道をたどる。明和から安永・天明期にかけては生花の諸流派が多数の成立をみた時代で,千家流,松月堂古流,古田流,遠州流,庸軒流,源氏流,但千流,正風流,千家我流,相阿弥流,宏道流,石州流,東山流などの流派が,それぞれの主張にもとづいて生花の教導をはじめた。生花がその花形(かぎよう)を明確に定めるのは文化・文政期(1804‐30)であって,陰陽五行説や地水火風空の五大を説いて花形を形成しようとした松月堂古流からはじまって,やがて天地人三才格による花形の定めが一般化し,円形の天に内接する正方形の地の図形を,さらに半切した三角形(鱗形)を求め,天枝・地枝・人枝の3本の役枝によって花形を定める,当時として最も合理的な未生斎一甫の考え方によって,生花はその花形を完成したものとみてよい。…
※「遠州流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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