ダグラス(読み)だぐらす(その他表記)Frederick Douglass

デジタル大辞泉 「ダグラス」の意味・読み・例文・類語

ダグラス(Douglas)

英国イングランドアイルランドの間にあるマン島南東部の港湾都市。同島の首都。17世紀から18世紀にかけて貿易の拠点として発展。島の歴史や世界的に有名なオートバイレースを紹介するマンクス博物館がある。

ダグラス(Kirk Douglas)

[1916~2020]米国の映画俳優。ボクサーを演じた「チャンピオン」で注目されると、ハリウッド黄金時代を代表する俳優として活躍。「スパルタカス」では主演のほか製作総指揮も務めた。他の出演作に「OK牧場の決斗けっとう」「炎の人ゴッホ」など。

ダグラス(Frederick Douglass)

[1818~1895]米国の黒人運動家。奴隷の子として生まれたが北部に逃亡。奴隷制廃止運動に尽力し、リンカーンの大統領選挙を後援するなど黒人の権利獲得に大きな役割を果たした。ハイチ駐在アメリカ公使などを歴任。著作に「フレデリック=ダグラス自叙伝」がある。

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精選版 日本国語大辞典 「ダグラス」の意味・読み・例文・類語

ダグラス

  1. ( Stephen Arnold Douglas スチーブン=アーノルド━ ) アメリカの政治家。北部の民主党の指導者。リンカーンと奴隷制の可否をめぐって、大統領選挙を争ったが、敗れた。(一八一三‐六一

ダグラス

  1. ( Douglas ) アメリカの航空機製造会社。またその開発、製造による航空機の称。一九六七年マクダネル社に合併され、マクダネル・ダグラス社となり、さらに一九九七年ボーイング社に吸収された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダグラス」の意味・わかりやすい解説

ダグラス(Frederick Douglass)
だぐらす
Frederick Douglass
(1818―1895)

アメリカ合衆国の代表的な黒人の奴隷制廃止論者。しばしば「公民権運動の父」とよばれる。メリーランド州のタッカホウで奴隷として生まれ、フレデリック・オーガスタス・ワシントン・ベイリーFrederick Augustus Washington Baileyと名づけられたが、父親は白人の奴隷主だったとの説が有力である。彼の出生年については、これまで1817年とされてきたが、ダグラス研究の進展の結果、18年であることが判明した。

 1838年に逃亡に成功し、マサチューセッツ州のニュー・ベッドフォードに定住、姓名もフレデリック・ダグラスと改めた。まもなく、ギャリソンなどの著名な奴隷制廃止論者に天賦の才を認められ、マサチューセッツ奴隷制反対協会の講演者として職業的改革者の道に踏み込んだ。45年、彼が残した三つの自伝『Narrative of the Life of Frederick Douglass, an American Slave』(1845)、『My Bondage and My Freedom』(1855)、『Life and Times of Frederick Douglass』(1892)の最初のものを公刊するとイギリスに渡り、約1年8か月間イギリスの同志たちと奴隷制廃止運動をはじめ各種の社会改革運動に従事した。この間、彼らの資金援助を得て自己の自由身分を買い取り、正式に自由黒人になった。帰国後、まもなくニューヨーク州ロチェスターで『ノース・スター』(北極星)を創刊した。黒人自身の手になるこの新聞(週刊)は、数ある奴隷制反対紙のなかでも、ギャリソンの『リベレーター』(解放者)と並んで奴隷制廃止のためのもっとも強力な武器となった。社会改革者としてのダグラスの活動は、奴隷制廃止運動の枠を超えて多方面に及んだが、とりわけ婦人の権利獲得運動において彼が果たした役割は大きかった。

 南北戦争(1861~65)が勃発(ぼっぱつ)すると、ただちにこの戦争を奴隷解放戦争とみ、奴隷解放宣言の布告をリンカーン政府に迫り、また、公布後は、黒人の軍隊参加と軍隊内での人種差別に強く反対した。戦後は、奴隷身分から解放された黒人のアメリカ人としての地位向上と公民権の獲得のために挺身(ていしん)したが、同時にコロンビア特別区の式部官やハイチ共和国の領事を務めるなど、政府の官職にもついた。1895年2月20日、首都ワシントンで没。遺骸(いがい)は、ロチェスターのマウント・ホープ墓地に埋葬されている。

[本田創造]

『Benjamin QuarlesFrederick Douglass (1948)』『Philip S. Foner ed.The Life and Writings of Frederick Douglass (Vol. 1, Vol. 2, 1950;Vol. 3, 1952;Vol. 4, 1955;Vol. 5, 1975)』『Nathan Irvin HugginsFrederick Douglass (1980)』『Dickson J. PrestonYoung Frederick Douglass (1980)』



ダグラス(Donald Wills Douglas)
だぐらす
Donald Wills Douglas
(1892―1981)

アメリカの飛行機製作者。1920年、資本金600ドルでカリフォルニア州サンタ・モニカにダグラス社を設立して、陸海軍機を生産、なかでも1924年に日本を通過して世界一周したワールド・クルーザー機は有名である。その後ボーイング社に対抗して民間輸送機を設計製作した。1935年に初飛行したダグラスDC-3は、ボーイング247の10客席に対して3列21席の客席を設け、決定的優位を得た。DC-3は第二次世界大戦の影響もあって約1万1000機を生産し、プロペラ輸送機の傑作といわれている。ダグラス社はジェット輸送機DC-8の開発の遅れなどでつまずき、1967年マクダネル社に合併され、マクダネル・ダグラス社となる。同社はDC-9、DC-10と続くDCの型式名称で知られるシリーズを送り出した。なお、マクダネル・ダグラス社は1997年ボーイング社に吸収合併された。

[佐貫亦男]



ダグラス(Stephen Arnold Douglas)
だぐらす
Stephen Arnold Douglas
(1813―1861)

アメリカの政治家。イリノイ州出身。1843~47年民主党の連邦下院議員。50年代初期、党の若手指導者として注目され、準州における奴隷制の可否をめぐる南北間対立の調停者として活躍。彼の「人民主権」の主張はカンザス・ネブラスカ法(1854)として具体化したが、この法律は南北の対立を激化させることになる。58年リンカーンとの間で行った奴隷をめぐる公開論争は「リンカーン‐ダグラス論争」として有名。60年民主党の大統領候補指名の獲得に成功したが、南部の民主党員は反発して北部の民主党とたもとを分かち、ブレッキンリッジJohn Cabell Breckinridge(1821―75)を独自の候補として指名。この民主党の分裂はリンカーンの当選につながるものであった。

[長田豊臣]


ダグラス(William O. Douglas)
だぐらす
William O. Douglas
(1898―1980)

アメリカの法律家。ミネソタ州に生まれる。少年時代に小児麻痺(まひ)にかかったが、これを克服し、アルバイトをしながらコロンビア・ロー・スクールを2番で卒業した(1925)。ニューヨーク州で弁護士資格を得、コロンビア大学(1927~1928)、エール大学(1928~1934)で法律学を教えたのち、証券取引委員会Securities and Exchange Commissionの委員および委員長を務め(1936~1939)、ブランダイスが最高裁裁判官を辞任したときに、40歳の若さでその後任者となり、1939年から1975年まで最高裁判所の裁判官としてアメリカ法の発展に寄与した。任命当時は保守派とみられていたが、裁判官としてはリベラルな立場から意見を述べたことで知られている。

[堀部政男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダグラス」の意味・わかりやすい解説

ダグラス
Douglas, Jesse

[生]1897.7.3. ニューヨーク,ニューヨーク
[没]1965.10.7. ニューヨーク,ニューヨーク
ジェス・ダグラス。アメリカ合衆国の数学者。ニューヨーク市立大学とコロンビア大学に学び,1920年にコロンビア大学で博士号取得。1930~36年マサチューセッツ工科大学 MIT,プリンストン高等研究所 IAS,1942~54年コロンビア大学などで教授を務め,1955~65年にはニューヨーク市立大学で教鞭をとった。1936年,ノルウェーのオスロで開催された国際数学者会議において,プラトー問題の解決により第1回のフィールズ賞を受賞した。プラトー問題は,与えられた境界に対して,それを境界にもつ面積が極小の曲面を求めるもので,スイスの数学者レオンハルト・オイラーとフランスの数学者ジョゼフ・ルイ・ラグランジュによって 1760年に提出された。1849年にベルギーの物理学者ジョゼフ・プラトーにより,針金を境界とする石鹸膜によってこのような極小曲面をつくる実験がなされた。数学的な極小曲面の存在の証明は,1931年にダグラスと,ハンガリー生まれでアメリカで活躍した数学者ティボール・ラドーによって,それぞれ独立になされた。さらに,ダグラスは古典的な変分問題の精密化によって,極小曲面が求められることを示した。のちに群論においても,二つの生成元をもつ有限群の決定について重要な業績を残した。

ダグラス
Douglass, Frederick

[生]1817.2.7. メリーランド
[没]1895.2.20. ワシントンD.C.
フレデリック・ダグラス。アメリカ合衆国の奴隷解放運動家。旧名 Frederick Augustus Washington Bailey。黒人奴隷の女性と白人男性を両親として生まれた。8歳のときからボルティモアで家内奴隷として働き,その間に州法の禁止規定を無視した女主人の好意によって読み書きを学んだ。1838年逃亡してマサチューセッツ州に移り,名前をダグラスと変え,労働者として生活する間に奴隷制廃止運動に参加。1845年に『フレデリック・ダグラスの半生』Narrative of the Life of Frederick Douglassを出版。1845~47年イギリスとアイルランドを講演旅行し,黒人奴隷の身分的解放のみならず,社会的・経済的平等の実現を主張した。このとき得た基金でみずからの自由を買い取り,1847~60年ニューヨーク州ロチェスターで奴隷制反対を主張する『ノース・スター』紙を発行(→アボリショニズム)。南北戦争中はエブラハム・リンカーン大統領の顧問として北軍への黒人徴兵に努力し,戦後は黒人の市民権の完全な獲得を目指して活動し,女性解放運動を支持した。1882年自伝の決定稿として『フレデリック・ダグラスの生涯とその時代』 Life and Times of Frederick Douglassを刊行。また,ダグラスは連邦政府の要職についた最初の黒人であり,南北戦争後さまざまな官職を務め,1889~91年にはハイチ公使兼総領事に就任した。

ダグラス
Douglas, Michael

[生]1944.9.25. ニュージャージー,ニューブランズウィック
マイケル・ダグラス。アメリカ合衆国の映画俳優,プロデューサー。フルネーム Michael Kirk Douglas。映画界の大物カーク・ダグラスとイギリスの女優ダイアナ・ディルの息子として生まれ,父親の撮影現場に同行するうちに映画制作について学んだ。カリフォルニア大学サンタバーバラ校で演劇を学んだのち,"Hail, Hero!"(1969)で映画デビュー。ベテラン俳優カール・モールデンと共演したテレビドラマ『サンフランシスコ捜査線』The Streets of San Francisco(1972)で注目を集めた。『カッコーの巣の上で』One Flew Over the Cuckoo's Nest(1975)で制作を手がけたのを機に,プロデューサーとして頭角を現す。この映画はアカデミー賞作品賞,主演男優賞(ジャック・ニコルソン),主演女優賞(ルイーズ・フレッチャー),監督賞(ミロス・フォアマン),脚色賞の主要 5部門を制覇した,ハリウッド史上 2本目の作品となった。代表作の一つとなった『危険な情事』Fatal Attraction(1987)では,不倫相手の女性に執拗につきまとわれる妻子ある男を好演。『ウォール街』Wall Street(1987)ではモラルのかけらもない非情な投資家をみごとに演じ,アカデミー賞主演男優賞を獲得した。父親同様,道徳性を欠く役柄を演じることで成功をつかんだ数少ない俳優の一人である。プロデューサーとしても『フェイス/オフ』Face/Off(1997)など数多くのヒット作を手がけている。

ダグラス
Douglas, Kirk

[生]1916.12.9. ニューヨーク,アムステルダム
[没]2020.2.5. カリフォルニア,ロサンゼルス
カーク・ダグラス。アメリカ合衆国の俳優,プロデューサー。本名 Issur Danielovitch。Isadore Demsky。強い意志をもつ情熱的なヒーローおよびアンチ・ヒーロー役を得意とする。両親はユダヤ系ロシア移民。セントローレンス大学およびアメリカ演劇アカデミー在学中に劇場案内係,ホテルのベルボーイ,ウェーター,プロレスラーなどさまざまな職を経験し,卒業後は端役としてブロードウェーの舞台に立った。1943~44年海軍で兵役につき,除隊後まもなくハリウッドデビューを果たす。『チャンピオン』Champion(1949)で冷酷なボクサー役を演じてアカデミー賞主演男優賞候補となり,スター街道を歩み始める。ビンセント・ミネリ監督の『悪人と美女』The Bad and the Beautiful(1952)と『炎の人ゴッホ』Lust for Life(1956)でもアカデミー賞主演男優賞にノミネート。その後も西部劇の傑作『OK牧場の決斗』Gunfight at the O.K. Corral(1957)や,スタンリー・キューブリック監督の『スパルタカス』Spartacus(1960)など質の高い作品に次々出演し,トップスターの地位を守り続けた。1970年代に入ると監督業に乗り出し,海賊コメディ "Scalawag"(1973)と,シニカルな西部劇『明日なき追撃』Posse(1975)の 2本を手がけた。1995年アカデミー賞名誉賞を受賞した。

ダグラス
Douglas, William O.

[生]1898.10.16. ミネソタ,メーン
[没]1980.1.19. ワシントンD.C.
ウィリアム・O.ダグラス。アメリカ合衆国の判事,法学者。フルネーム William Orville Douglas。市民の自由の擁護者として知られ,連邦最高裁判所での 36年半の在職期間はアメリカ史上最長である。1920年ホイットマン大学卒業後短期間教鞭をとったが,1922年コロンビア大学法科大学院に入学し,1925年首席で卒業した。ウォール街の弁護士事務所で働いたのち,コロンビア大学,エール大学で 1936年まで法律を教えた。1936年証券取引委員会 SECのメンバーとなり,翌 1937年に委員長に就任。在職中はフランクリン・D.ルーズベルト大統領の顧問も務めた。1939年,40歳にして連邦最高裁判事に任命。進歩派判事の一人として活躍し,一貫して市民の自由や言論の自由を擁護し,政府による検閲や報道の規制に反対した。また違法な犯罪捜査や,容疑者に対する自白の強制にも反対した。このため政治的保守派や宗教原理主義者から批判を浴びることもあった。1975年引退。"Of Men and Mountains"(1950),"A Wilderness Bill of Rights"(1965)など著書多数。

ダグラス
Douglas, Sir James

[生]1803.8.15. イギリス領ギアナ,デメラーラ
[没]1877.8.2. ブリティシュコロンビア,ビクトリア
ジェームズ・ダグラス。イギリスの植民地行政官。「ブリティシュコロンビアの父」(→ブリティシュコロンビア州)と呼ばれる。スコットランドで教育を受け,1821年ハドソン湾会社の社員となる。ロッキー山脈以西の北アメリカを担当し,アメリカ合衆国とイギリス領北アメリカとの国境決定により,1849年支社をオレゴンからバンクーバー島に移した。1851~63年バンクーバー島の総督を務めたが,その間 1858年に対岸の本土のフレーザー渓谷で金が発見され,アメリカをはじめ世界中の人が押しかけてゴールド・ラッシュとなるや総督の権限を本土にまで拡張して治安維持に努めた。イギリス政府は彼の勧告に従い,本土にブリティシュコロンビア植民地を設け,1858~64年彼を総督に据えた。1864年にすべての公生活を退き,彼の建設したビクトリアに引退した。

ダグラス
Douglas, Stephen A.

[生]1813.4.23. バーモント,ブランドン
[没]1861.6.3. イリノイ,シカゴ
スティーブン・A.ダグラス。アメリカ合衆国の政治家。フルネーム Stephen Arnold Douglas。1843年以降,イリノイ州選出の連邦下院議員,連邦上院議員として,西部への領土拡張,大陸横断鉄道建設などを主張。彼の住民主権論は,各州に奴隷制度の決定権をゆだねるという理論で「カンザス=ネブラスカ法」(1854)の論拠とされた。1858年イリノイ州連邦上院議員に再選されたとき,エブラハム・リンカーンとの間に奴隷制をめぐる有名な「リンカーン=ダグラス論争」を展開した。1860年民主党の大統領候補となったがリンカーンに敗れた。南北戦争の直前には南北和解に努めたが,戦争開始後にはリンカーンの連邦統一論を支持した。

ダグラス
Douglas, Keith

[生]1920.1.20. イギリス,ロイヤルタンブリッジウェルズ
[没]1944.6.9. フランス,ノルマンディー
キース・ダグラス。イギリスの詩人。フルネーム Keith Castellain Douglas。オックスフォード大学に学び,第2次世界大戦時のノルマンディー上陸作戦オーバーロード作戦)で戦死。北アフリカ駐留中(→アルアラマインの戦い)に書いた作品が特に重要。簡潔で冷徹な筆致をもって真摯に生死のあり方を追求した。主著は『アラマインからゼムゼムへ』Alamein to Zem-Zem(1946),死後出版された『全詩集』Collected Poems(1951)。なお,テッド・ヒューズがダグラスの作品を編んだ『選詩集』Selected Poems(1964)は,彼を普遍的な価値をもつ詩人に押し上げた。

ダグラス
Douglas, Tommy

[生]1904.10.20. イギリス,フォールカーク
[没]1986.2.24. カナダ,オタワ
トミー・ダグラス。カナダの政治家。フルネーム Thomas Clement Douglas。1910年カナダに移住し,マニトバ大学,マクマスター大学,シカゴ大学で学び,1930年にバプテスト派の牧師となる。1935年協同連邦党から連邦下院議員に当選して政界入り。1944年にはサスカチュワン州議会で協同連邦党が勝利を得て州首相に就任(~1961)。この勝利は北アメリカにおける初の社会主義政権の誕生として注目され,数々の社会改革を遂行した。1961年新民主党の樹立とともに党首に推されるまで,州首相を務めた。1962年再び連邦下院議員に当選。1971年に党首を退いたが,1979年まで国会議員として政界で活動した。

ダグラス
Douglas, Sir James

[生]1286頃
[没]1330.8.25. スペイン
ジェームズ・ダグラス。スコットランドの貴族ダグラス家の祖。ブラック・ダグラスと通称される。ロバート1世ブルースに仕えてイングランドとの戦いに功績を上げ,1314年6月バノックバーンの戦いでイングランド王エドワード2世の軍を壊滅させ,その後たびたびイングランドに攻め入った。1329年ロバート1世が没すると,その心臓を持ってエルサレムへの巡礼の旅に出たが,途中イベリア半島でベルベル人と戦って戦死。

ダグラス
Douglas, Norman

[生]1868.12.8. オーストリア,チューリンゲン
[没]1952.2.9. イタリア,カプリ島
ノーマン・ダグラス。イギリスの作家。フルネーム George Norman Douglas。ドイツ貴族の血を引くスコットランドの大地主の家に生まれ,ドイツのカルルスルーエのギムナジウムで学んだ。1893年にイギリスの外交官となったが,ロシアに 3年赴任しただけでやめ,インドやイタリア,北アフリカを放浪後,イタリアのカプリ島に定住した。島の風物や快楽的生活を扱った小説『南の風』South Wind(1917)のほか,『サイレンの住む地』Siren Land(1911),『古いカラブリア』Old Calabria(1915)などの優れた旅行記,自伝『顧みれば』Looking Back(1933)がある。

ダグラス
Douglas

イギリスとアイルランドの間,アイリッシュ海北部中央にあるマン島の都市。イギリス国王の直轄地である同島の行政中心地で,島の中部南東岸に位置する。 16世紀には小漁港にすぎなかったが,18世紀に密貿易によって急速に発展。市内にはモナ城 (1804) やレフュージ塔 (1832) などの歴史的建築物がある。主産業は観光業で,島の観光中心地となっており,マン島 TTレースとして知られる国際的なオートバイレースが行なわれる6月,マン島グランプリレースが行なわれる9月を中心に観光客が多い。ほかに精密機械,ビール醸造,ミネラル・ウォーターなどの工業がある。リバプールから船便があり,ロンドン,リバプール,マンチェスターなどからは航空路も開かれている。人口 2万6218(2006)。

ダグラス
Douglas, Lloyd C.

[生]1877.8.27. インディアナ,コロンビア
[没]1951.2.13. カリフォルニア,ロサンゼルス
ロイド・C.ダグラス。アメリカ合衆国の小説家。フルネーム Lloyd Cassel Douglas。ルター派教会ののち会衆派の牧師となり,50歳を過ぎてから小説を書き始めた。処女作『偉大なる妄想』The Magnificent Obsession(1929)で一躍有名になった。ほかに『われらのあやまちを許したまえ』Forgive Us Our Trespasses(1932),『聖なる漁夫』The Big Fisherman(1948)などの宗教小説,自叙伝,説教集がある。

ダグラス
Douglas, Paul Howard

[生]1892.3.26. マサチューセッツ,セーレム
[没]1976.9.24. ワシントンD.C.
ポール・ハワード・ダグラス。アメリカ合衆国の経済学者,政治家。1921年コロンビア大学より博士号取得。ワシントン大学など各地で経済学の教師をしたのち,1925~48年シカゴ大学教授を務めた。1947年アメリカ経済学会会長。1948~66年民主党所属の上院議員。現実の経済問題に深い関心をもち,統計的実証分析を導入,主著『賃金の理論』The Theory of Wages(1934)や「コッブ=ダグラス型生産関数」の考案などで有名。第2次世界大戦中は海兵隊に入り沖縄で負傷。"Real Wages in the United States1890~1926"(1930)など著書多数。

ダグラス
Douglas, Archibald Lucius

[生]1842.2.8. カナダ,ケベック
[没]1913.4.12. イギリス,ニューナム
アーチボルド・ルシアス・ダグラス。イギリスの来日顧問(→御雇外国人)。イギリス海兵団に属し,中佐のときの 1873年7月,日本政府の招聘でイギリス海軍教師団首長として着任。海軍省雇となり,兵学寮における士官教育を,規則制定,教科編成にわたり主宰。かたわら,練習航海の必要を同省に建言し採用された。こうしてイギリス式海軍編制は彼により確立されたが,任期を待たず 1875年に辞任して,帰国。のち海軍大将。

ダグラス
Douglas, Gawin

[生]1475頃
[没]1522.9. ロンドン
ギャビン・ダグラス。スコットランドの詩人,聖職者。ギャビンは Gavinとも綴る。2編の寓意詩『名誉の宮』The Palace of Honour(1501),『ハート王』King Hartのほか,ウェルギリウスの『アエネイス』の翻訳などがある。

ダグラス
Douglas

アメリカ合衆国,アリゾナ州南東部の都市。町の大通りがメキシコとの国境をなし,反対側はアグアプリエタの町である。 1900年に銅精錬の町として建設され,その後灌漑の発達によって牧畜や農業が行われるようになった。人口1万 2822 (1990) 。

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改訂新版 世界大百科事典 「ダグラス」の意味・わかりやすい解説

ダグラス
Frederick Douglass
生没年:1817-95

アメリカの黒人指導者。奴隷の子としてメリーランド州に生まれ,21歳のとき北部に逃亡,以後奴隷解放運動に挺身,女性の平等への運動にも貢献した。名演説家としても知られたが,1845年に自伝を出版,これは改訂増補を重ねて92年に完成する。1847年には奴隷解放のための新聞《北極星》を創刊(のちFrederick Douglass' Paperと改称)。南北戦争後も黒人の平等のため努力。しだいに連邦政府からも認められて,71年駐サント・ドミンゴ(ドミニカ共和国)大使館付き書記官,77年首都ワシントンの連邦執行官,89年にはハイチ駐在アメリカ公使となった。人種差別のひどかった当時としては画期的な活躍である。
執筆者:


ダグラス
William Orville Douglas
生没年:1898-1980

アメリカの法律家。ミネソタ州生れ。1925年にコロンビア大学卒業後,同大学ロー・スクールの講師を経て,イェール大学ロー・スクール教授(1931-39)を務め,当時は破産法を専門とした。また,合衆国証券取引委員会委員(1934-36),同委員長(1936-39)を務めた後,1939-75年合衆国最高裁判所裁判官に在任。この36年という在任期間は,これまでの最長記録である。H.L.F.ブラックと並んで,最高裁の中のリベラル派を代表するとともに,裁判所みずからの価値基準によって積極的に立法の内容を審査していくという司法積極主義の代表的な人物であった。
執筆者:


ダグラス
George Norman Douglas
生没年:1868-1952

イギリスの小説家。オーストリア生れ。イギリスの名門私立中学を中退してドイツで教育を受けた。1893年外交官となり各地を遍歴,動物学にもかなりの業績を示した。1901年退職。17年カプリ島を扱った高度に知的なファンタジー小説《南の風》で名声を確立した。以後《彼らは行った》(1921),《砂漠の泉》(1923)などの小説や数多くのエッセーを発表しているが,一種の旅行記《なつかしきカラブリア》(1915)を除いては《南の風》に匹敵するものはない。
執筆者:


ダグラス
Stephen Arnold Douglas
生没年:1813-61

アメリカの政治家。1843-47年イリノイ州選出連邦下院議員,47年以降は連邦上院議員。準州をめぐる南北の対立を調停すべく活躍。54年のカンザス・ネブラスカ法案は,ダグラスの提案になる。58年の州選挙では準州における奴隷制の合法性をめぐって有名な〈リンカン=ダグラス論争〉を展開するが,その結果,南部の支持を失い,60年の大統領選挙では,民主党の指名を獲得しながらリンカンに敗北を喫してしまう。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「ダグラス」の解説

ダグラス

没年:1913.3.13(1913.3.13)
生年:1842.3.4
イギリスの海軍軍人。明治新政府が海軍軍人養成のために招いた教師団の団長。幕末,幕府,諸藩ともに西洋式海軍の導入に力を入れたが,明治3(1870)年海軍はイギリス式軍事編制を採用することになり,教師団派遣をイギリス政府に依頼。6年7月27日,ダグラス中佐を団長とする教師団34名が来日,東京築地にあった兵学寮で教育した。寮の規則を改正し,授業開始の5分前に集合することなどを定めた。常勤の乗組士官や専任英語教員を雇い入れ,さらに実地教育を重視し遠洋航海による乗艦実習を開始。これにより海軍教育システムが整えられた。教え子である山本権兵衛,斎藤実 らは,日清・日露両戦争で活躍し,さらには海軍の運営に重要な役割を果たした。8年7月25日離日。海軍教育への貢献で日本政府から勲一等旭日章を贈られた。1901年中将に進み,1905年ポーツマス軍港司令長官。大将で退役。<参考文献>篠原宏『日本海軍お雇い外人』

(山村義照)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「ダグラス」の意味・わかりやすい解説

ダグラス

米国のマクダネル・ダグラス会社が製造した一連の輸送機。1934年の革新的な双発全金属製引込脚機DC2に始まり,以後DC3〜7のDCシリーズ(プロペラ機)は,第2次大戦前から戦後にかけて世界民間航空機の代表的地位を占めた。中でもDC3は大戦中の米軍輸送機の主力として1万機以上が生産された。ジェット時代にもDC8長距離輸送機,DC9短距離輸送機,DC10エアバスが活躍した。

ダグラス

イタリア生れの人類学者。英国,米国で活動。象徴の問題,特に人間が外界を認識する際の秩序体系を研究。タブー視され忌避される事物は体系の境界や周縁に位置しており,それらの排除は秩序を維持するための営為であると論じた。著書に《汚穢と禁忌》(1966年)ほか。
→関連項目文化人類学

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ダグラス」の解説

ダグラス Douglas, Archibald Lucius

ドーグラス

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367日誕生日大事典 「ダグラス」の解説

ダグラス

生年月日:1838年8月23日
イギリスの中国および日本研究家
1913年没

ダグラス

生年月日:1892年3月26日
アメリカの経済学者,政治家
1976年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のダグラスの言及

【マクダネル・ダグラス[会社]】より

…66年McDonnell Co.に社名変更。67年旅客機で有名なダグラス社Douglas Aircraft Co.Inc.(1920設立)を合併して現社名となる。70年に情報処理サービスを行うMcDonnell Douglas Automation Co.を設立。…

※「ダグラス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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