山田敬中(読み)ヤマダ ケイチュウ

20世紀日本人名事典 「山田敬中」の解説

山田 敬中
ヤマダ ケイチュウ

明治〜昭和期の画家



生年
慶応4年4月2日(1868年)

没年
昭和9(1934)年1月21日

出生地
江戸・浅草吉野町

本名
島根 忠蔵

別名
別号=可得

経歴
初め月岡芳年に師事し、のち川端玉章に入門。明治24年日本青年絵画協会に参加、29年第1回日本絵画協会共進会第3部で銅牌となり、30年同第2回、31年日本美術院第1回展と連合で開催された第5回共進会でも銅牌を受賞。また30年全国絵画共進会で3等賞となる。29年東京美術学校(現・東京芸術大学)嘱託教員となるが、31年美校騒動に際し辞職、日本美術院創立に参加し、正員。40年第1回文展に「華の蜜」が入選、42年「桃園三傑」、44年「孤村の夕」、大正4年「白馬銀鞍」がいずれも文展で褒状を受賞。9年帝展推薦、13年委員となり、第6回帝展に「中原の鹿誰が手に帰す」を出品。巽画会にも参加、川端画学校教授、石川県立工業学校教頭なども務めた。風景画を主として歴史画、仏画をよくした。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山田敬中」の解説

山田敬中 やまだ-けいちゅう

1868-1934 明治-昭和時代前期の日本画家。
慶応4年4月2日生まれ。月岡芳年(よしとし),川端玉章(ぎょくしょう)にまなぶ。明治31年美校事件で東京美術学校(現東京芸大)教師をやめ,日本美術院創立に参加。石川県立工業学校,川端画学校などでおしえた。昭和9年1月21日死去。67歳。江戸出身。旧姓は島根。本名は忠蔵。別号に可得。作品に「華の蜜(みつ)」「桃園三傑」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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