( 1 )中国では、元曲や明代の白話小説などに見えるが、主に技術・武術などを教える人の意味で、社会的地位も低かったらしい。
( 2 )日本では、江戸期に儒学を教える人を指す例が見えるが、明治期に入ってから、学校の教員を指すようになる。これは、学校制度の発足と関係があるが、宣教師の意とする中国の洋学、辞書の影響も考えられる。
人間とくに子ども,青年を指導し,その発達を助け促す人。類似の語に教育者,先生,師匠,師,教員などがある。学校制度発足前には教師,教育者,教員などの語はなく,学芸,武道あるいは歌舞音曲などを教授する人は師匠と呼ばれていた。今日,師匠は茶道,華道など伝統的な芸事の教師について使われるにとどまる。教師が知識,技術の伝達を中心的な仕事にする人とされるとき,教育者はより広く人格形成者という意に使用される。また近代公教育制度の確立以降,法律用語としては教員が使用されてきた。先生は,教師のほか,医師さらには議員などにも用いられるが,それは敬意をこめて使われるだけでなく,ときにはからかったり,あなどったりするさいに使用される。教師に類似する語には,使われ方に若干の違いがあるが,それは程度の差にとどまり,教員も師匠も教師であることは共通である。
ある社会の理想や規範を代表する権威者として,若い世代の発達に影響をあたえる者は,いつの時代,どの社会にもおり,未開社会では青年を通過儀礼に向けて訓練するおとなたちは,広い意味で,すべて教師であったといえる。日本では江戸時代を通じ,〈三尺下がって師の影を踏まず〉といわれ,なんらかの権威を背にした教師は,畏敬の念をもって迎えられており,教師が学ぶ者との人間的交流を深めながら導くという事例は少なかった。1872年(明治5),〈学制〉公布により近代的学校制度が整えられようとしたとき,前代の師匠像を受けつぎながら,公教育の教師への脱皮をはかろうとした。73年師範学校(東京)の定めた〈小学教師心得〉では,教師は学問を教えるだけでなく,日常の飲食起居にいたるまで教導すべきだとし,〈生徒ノ中学術進歩セス或ハ平日不行状ノ徒アラハ教師タル者ノ越度タル可シ〉といって,生徒の模範となることをきびしく求めていた。ついで自由民権運動抑圧をめざす教育行政のすすめられるなかで,81年文部省の出した〈小学校教員心得〉は,冒頭で小学校教員の良否は普通教育の弛張,さらには国家の隆替にかかわるので〈其任タル重且大ナリト謂フヘシ〉とし,尊王愛国の士気を奮い起こさせることが教師の何よりの任務であると規定したうえで,学校内外における心得をこまごまと記し,教師の言動を規制した。
この後,政府の期待する教師の養成を担当したのは師範学校であり,初代文相森有礼が学校制度を整える仕事の一つとして86年に出した師範学校令では,第1条で〈生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス〉と規定した。ここに示されているのは,権威に対しては従順であり,その権威を背景に生徒に向かっては威厳のある態度で接する教師像であった。この4年後,90年に発布された教育勅語は,教師の仕事を決定的に拘束し,翌91年の文部省令〈小学校長及教員職務及服務規則〉では,校長,教員は教育勅語の趣旨を奉体し,法律,命令の指定にしたがって職務に服すべきことが指示された。このように教師の仕事がいよいよ明確に指示されると同時にその名称や待遇は整備されるようになった。教育勅語と同年に出された小学校令にもとづき,91年6月には〈市町村立小学校長及教員名称及待遇〉により,名称は小学校長,高等訓導,訓導,准訓導,授業師,准授業師の6種にわけられたが,11月にこれが全面改正され,小学校長,訓導(正教員),准訓導(准教員)の3種に改められ,訓導の名称は戦後の6・3制が発足するまでつづいた。一方,中学校,高等女学校の教員の名称は教諭であった。
学校の整備とともに教員の資格についても規定が整えられるようになる。学制では小学校教員は師範学校卒業の免状を有する者,中学校教員は大学卒業免状を有する者とされたが,そのような資格を有する者は少なく,1886年の諸学校通則で〈凡ソ教員ハ文部大臣若クハ府知事県令ノ免許状ヲ得タルモノタルヘシ〉とされ,これにもとづき小学校教員免許規則が出され,免許状を持つ者だけが教員になれるという免許状主義が確立する。これは1900年の教員免許令によっていっそう明確な方針とされ,〈教員免許状ハ教員養成ノ目的ヲ以テ設置シタル官立学校ノ卒業者又ハ教員検定ニ合格シタル者ニ文部大臣之ヲ授与ス〉と定められ,この方針が第2次大戦後の学制改革までつづいた。
以上にあげた正規の教員のほか,25年に〈陸軍現役将校学校配属令〉が出され,師範学校,中学校,実業学校,高等学校,大学予科,専門学校,高等師範学校などの男生徒の教練を担当するため,陸軍現役将校を各学校に配属することが定められた(軍事教練)。戦時体制下には学校内でこの将校が一般教員よりも優位に立つという事態が多くの学校でみられるようになった。
第2次大戦後,多くの教師は,敗戦にいたるまで,生徒に超国家主義的・軍国主義的教育を行ったことを強く反省し,価値の転換に直面し深く苦悩した(教職追放)。しかしきのうまでとはうって変わって民主主義を口にする教師に不信の念を抱いた生徒も多かった。文部省は1946年《新教育指針》で,〈平和的文化国家になって教育がその本道にかへったのであるから,教育者はだれにも束縛されることなく,自由にその本分に力をつくすことができる。これが今日の教育者の大きな喜びでなければならない〉といって,教師を励ました。この指針には教師が教員組合(教職員組合)を健全に発達させることへの期待が書かれており,教師自身も戦前,強い統制下で試みられた教員組合運動の遺産を継承して1945年秋から教員組合結成への努力がつづけられ,曲折をへたのち,47年6月に日本教職員組合(日教組)を結成し,民主主義教育の建設に努力することを誓った。戦後の教師のあり方を示したのは教育基本法であり,〈法律に定める学校の教員は,全体の奉仕者であって,自己の使命を自覚し,その職責の遂行に努めなければならない。このためには,教員の身分は,尊重され,その待遇の適正が,期せられなければならない〉(6条2項)とされた。
戦後の教師関係での大きな改革は養成の方式である。日本国憲法と教育基本法の理想を実現するための教育を担う教師を育てるには,その方式の転換が必要であった。それは〈教育職員免許法〉(1949公布)に示されている。戦前とのもっとも大きなちがいは,教員養成を大学で行い,大学で一定の単位をとった者には免許状を授与する方式に改めたことである。これは開放制といわれている。また大学以外の学校の教員は相当の免許状を持たなければならないとされた。これは教師の専門職性を明確にするためにとられた方針である。この免許法と並ぶ教師関係のもう一つの重要な法律は,教育公務員特例法(1949公布)である。これは国民全体に奉仕する教育公務員の職務と責任の特殊性にもとづき,教育公務員の一般公務員に対する特例を規定した法であり,校長,教員の採用を競争試験ではなく選考によるとしたこと,職責遂行のために絶えず研究と修養に努めなければならないと規定したところにその特徴がみられる。
51年の講和条約締結前後から教育政策が転換し,教育基本法体制の空洞化といわれ,それは教員政策にもあらわれた。そのとき日教組は平和と民主主義の教育を守ることの重要性を確認し,52年の大会で〈教師の倫理綱領〉を決定した。それは〈教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる〉に始まる10項目であり,平和の擁護,教育の機会均等の実現,科学的真理に立っての行動,教育の自由の保障などをかかげている。そのなかで〈教師は労働者である〉〈教師は団結する〉などの項目が,かつての教職聖職観と鋭く対立し,自民党出身の多くの文相を刺激し,文部省と日教組との教師観の相違を浮彫にした。その後,54年には教育公務員特例法の一部改正により,地方公務員である教育公務員の政治活動の制限範囲が国家公務員なみに強化され,また同時に出された〈義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法〉とともに教師の市民的自由が制限されるようになった。ついで56年に公布された〈地方教育行政の組織及び運営に関する法律〉(地方教育行政法)を根拠に翌57年以降,教師の勤務評定が行われ始めた。その実施に対しては日教組などによる強い反対があり,これを機に教職のあり方についての議論が行われた(勤評闘争)。また教師の待遇は74年の〈学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法〉(略称,人確法)により若干改善されたが,一方,同年,教頭職の法制化によりその職務権限が強化され,翌75年には小・中・高校などに教務主任,学年主任,生徒指導主任などを置き,主任手当をつけることが決定された。学校経営では各学校ごとに多様な協力形態のあることが望ましいので,この省令改正による画一的実施は管理体制強化につながるとして組合側は反対し,主任手当拠出により各地で独自な文化活動を展開し始めた。
近代以前,教師はほとんどすべて男性であった。しかし初等教育の普及とともに各国で女教師の養成が始まり,日本でも1874年以降,各府県に女子師範学校が設立された。とくに小学校における女教師は増加し,1920年には1/3,第2次大戦中,多数の男性教師が召集された44年には半数をこえた。戦後,男性の復員によって一時その割合は減ったが,やがて上昇し,70年には再び半数をこえた。女教師の進出は女性の社会的地位の向上と関係があり,小学校の場合,イギリス,アメリカ,フランス,ロシアなどでは校長をふくめ女教師が圧倒的に多いが,第三世界では教職は男性によってその多くを占められている。日本では免許,給与など法規上,男女の差別はなく,教職はほとんど唯一の男女平等の職であるが,現実の学校の校務分掌や校長,教頭への昇任では女教師は不利な立場におかれている。
教師の地位や仕事についての国際的な文書としては,66年日本もふくめ76ヵ国の代表が参加したユネスコ特別政府間会議で採択された〈教員の地位に関する勧告〉がある。そこでは〈教育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである〉としたうえで,最高水準の仕事をする責任のあることを強調し,さらに〈教員にすべての市民的権利を行使する自由を認めねばならない〉としており,これは日本の教師の地位に対しても問題を投げかけている。またこれより先,1946年のユネスコの提唱に始まり,54年のFISE(世界教員組合連盟),IFTA(国際教員協会連合),FIPESO(国際中等教員連合)の合同委員会により,世界教員憲章が採択されており,そのなかには,〈教育課程と教育実践とにかんする問題では,教育学上および職業上の自由が尊重されねばならない。とくに教育方法と教科書との選択において,また教育学上および職業上の諸問題の研究に自分たちの代表を参加させることをとおして,教員の創意性が奨励されなければならない〉という重要な原則が示されている。こういう原則を実地に移すことにより,教師は生き生きと活動できるのである。
→学校 →教育
執筆者:山住 正己
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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