山西きよ(読み)ヤマニシ キヨ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「山西きよ」の解説

山西 きよ
ヤマニシ キヨ


肩書
元・小川町(茨城県)町長

生年月日
明治42年9月15日

出生地
東京・日本橋

出身地
茨城県中野村(現・大野村)

経歴
昭和31年5月、航空自衛隊が茨城県東茨城郡小川町の百里ケ原に専用基地を造る計画を発表した際、「百里基地反対同盟」などの反対派に推され、32年4月小川町の町長に当選。一坪地主の一坪運動を展開したが、基地賛成派によるリコール請求が成立し、34年3月の町長選挙に敗れた。平成元年最高裁判決で上告を棄却された後も、反基地闘争のシンボル的存在として闘い続ける。自宅には、浅沼稲次郎(元社会党委員長・故人)が泊まりこんだ“闘争部屋”や、誘致派襲撃に備えた“カラクリ部屋”が残っている。

没年月日
平成8年1月7日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「山西きよ」の解説

山西 きよ
ヤマニシ キヨ

昭和・平成期の社会運動家 元・小川町(茨城県)町長。



生年
明治42(1909)年9月15日

没年
平成8(1996)年1月7日

出生地
東京・日本橋

出身地
茨城県中野村(現・大野村)

経歴
昭和31年5月、航空自衛隊が茨城県東茨城郡小川町の百里ケ原に専用基地を造る計画を発表した際、「百里基地反対同盟」などの反対派に推され、32年4月小川町の町長に当選。一坪地主の一坪運動を展開したが、基地賛成派によるリコール請求が成立し、34年3月の町長選挙に敗れた。平成元年最高裁判決で上告を棄却された後も、反基地闘争のシンボル的存在として闘い続ける。自宅には、浅沼稲次郎(元社会党委員長・故人)が泊まりこんだ“闘争部屋”や、誘致派襲撃に備えた“カラクリ部屋”が残っている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山西きよ」の解説

山西きよ やまにし-きよ

1909-1996 昭和時代後期の社会運動家。
明治42年9月15日生まれ。茨城県小川町の肥料商の妻。昭和31年航空自衛隊の百里基地建設計画発表の際,反自衛隊・反基地闘争のリーダーとなり,32年町長に当選。用地買収阻止のため1坪地主運動を展開したが,基地賛成派によるリコールが成立し,34年の町長選で敗れる。百里基地訴訟を25年間あらそった。平成8年1月7日死去。86歳。茨城県出身。潮来(いたこ)女子技芸学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「山西きよ」の解説

山西 きよ (やまにし きよ)

生年月日:1909年9月15日
昭和時代の社会運動家。小川町(茨城県)町長
1996年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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