浅沼稲次郎(読み)アサヌマイネジロウ

デジタル大辞泉 「浅沼稲次郎」の意味・読み・例文・類語

あさぬま‐いねじろう〔‐いねジラウ〕【浅沼稲次郎】

[1898~1960]社会運動家・政治家。東京三宅島の生まれ。労農運動に活躍し、昭和35年(1960)日本社会党委員長に就任。同年10月、日比谷公会堂で立会演説中に右翼少年に刺殺された。著「わが言論闘争録」。

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精選版 日本国語大辞典 「浅沼稲次郎」の意味・読み・例文・類語

あさぬま‐いねじろう【浅沼稲次郎】

  1. 政治家。社会運動家。東京出身。第二次世界大戦後、日本社会党結成に加わる。委員長在任中、右翼の少年に刺殺された。明治三一~昭和三五年(一八九八‐一九六〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浅沼稲次郎」の意味・わかりやすい解説

浅沼稲次郎
あさぬまいねじろう
(1898―1960)

政治家。明治31年12月27日生まれ、東京府三宅(みやけ)島神着(かみつき)村出身。1923年(大正12)早稲田(わせだ)大学政治経済学部卒業。1919年2月民人同盟会に参加するが、同会は半年余で分裂浅沼和田巌(いわお)、田所輝明(てるあき)、三宅正一らと建設者同盟を創立し社会主義運動に踏み出した。当時の信条は機関誌『建設者』の一文「もう議論、理屈は必要ではない……まず行動しろ」からうかがえるが、そのことばどおり日本農民組合、全日本鉱夫総連合のオルグ活動に奔走し、まもなく「演説百姓」の異名をとる。一方、学生戦線では1923年5月の早大軍事研究団反対闘争を指導した。この闘争では右翼学生の暴行を受け、また関東大震災では軍隊に捕らえられ九死に一生を得た。1925年12月日本初の無産政党農民労働党書記長に就任したが、即日解散命令のため「3時間書記長」であった。翌1926年3月創立の労働農民党では組織部長となり、同じころ日農常任委員として新潟県木崎村争議を指導した。ついで無産政党が分立するや、中間派社会民主主義の日本労農党組織部長となり、以後無産政党解散まで麻生久(あそうひさし)と行動をともにした。この間1933年(昭和8)東京市会議員、1936年衆議院議員となる。戦時下、1942年翼賛選挙では非推薦のため立候補を辞退したが、翌1943年都会議員に当選、副議長を務めた。戦後、日本社会党結成に参加、組織部長となり、1948年(昭和23)第3回党大会で書記長に就任、1951年分裂時は右派社会党書記長、1955年統一大会でも書記長に選出され、1960年3月委員長となるまでその地位にあった。党の調整役として「マアマア居士(こじ)」の異名をとったのはこの時期である。衆議院議員としては1946年以来1958年総選挙まで連続7期の当選を数えた。1959年3月中国訪問の際「アメリカ帝国主義は日中共同の敵である」と発言、従来の右派的路線から踏み出し、その立場で60年安保闘争を指導したが、1960年(昭和35)10月12日東京・日比谷公会堂で演説中、右翼の少年山口二矢(おとや)に刺殺された。「人間機関車」「沼さん」と人々から親しまれ、大衆政治家の典型であった。

[荒川章二]

『浅沼稲次郎著『わが言論闘争録』(1953・社会思潮社)』『『私の履歴書 第2集』(1957・日本経済新聞社)』『浅沼追悼出版編集委員会『驀進』(1961・日本社会党機関紙局)』『大曲直著『浅沼稲次郎 その人・その生涯』(1961・至誠堂)』『三宅正一著『激動期の日本社会運動史 賀川豊彦・麻生久・浅沼稲次郎の軌跡』(1973・現代評論社)』『国会図書館憲政資料室所蔵「浅沼稲次郎関係文書」』

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改訂新版 世界大百科事典 「浅沼稲次郎」の意味・わかりやすい解説

浅沼稲次郎 (あさぬまいねじろう)
生没年:1898-1960(明治31-昭和35)

大正・昭和期の社会運動家,政治家。東京府三宅島出身。1910年上京,18年早稲田大学予科に入学,雄弁会,ボート部に属したが,翌年2月,民人同盟会結成に参加した。同会が急進,現実両派に分裂するや後者に属し,和田巌,稲村隆一らと9月,建設者同盟を結成,以後田所輝明,三宅正一らと行動をともにした。20年大学部に進み,23年卒業,同年5月の早稲田軍教事件では反対運動で活躍,右翼学生のリンチにあう。関東大震災のときも軍隊に捕らえられ,九死に一生をえた。この間,一時,日本共産党に入党したが,24年の解党で自然離党した。以後建設者同盟の同人とともに農民運動に加わり,無産政党組織に活躍,25年12月,農民労働党書記長に就任したが,即時結社禁止とされた。26年3月,労働農民党組織部長に就任,また日農常任委員として新潟県木崎村,王番田争議などを指導した。同年12月,日本労農党に移り,組織部長に就任,以後中間派社会民主主義の路線を歩む。32年社会大衆党結成のさい常任中央委員となり,翌年東京市議会議員に当選,36,37年の総選挙に当選したが,反軍演説の斎藤隆夫の除名に賛成するなど,麻生久と同一行動をとった。42年の翼賛選挙では非推薦のため立候補を断念,翌年8月,東京都議会議員に当選,初代副議長に選出された。第2次大戦後日本社会党結成に参加,組織部長となり,46年の総選挙以後,連続7回当選した。48年以降書記長就任が多く,51年の同党分裂の際も,委員長空席の右派社会党書記長となり,党のまとめ役として〈マアマア居士〉といわれた。59年3月,党の訪中団長として〈米帝国主義は日中両国人民共同の敵〉と挨拶,共同声明を発表,反響を呼んだ。翌年3月,左派の支持で委員長となり,安保闘争の先頭に立った。池田勇人内閣成立後の10月12日,自民,社会,民社3党首立会演説会(日比谷公会堂)で演説中,大日本愛国党を脱党していた17歳の山口二矢に刺され,病院に運ばれる途中死去した。この光景はテレビで放映され,大きなショックを与え,その夕刻には抗議集会が開かれたほどである。
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百科事典マイペディア 「浅沼稲次郎」の意味・わかりやすい解説

浅沼稲次郎【あさぬまいねじろう】

社会運動家,政治家。東京都出身。早大在学中から無産運動に参加,一時,日本共産党に入党した。1924年の解党後,自然離党し,農民労働党書記長(結党30分後に解散命令),労農党日本労農党を経て,1932年社会大衆党に入党,のち代議士に当選。戦後は,日本社会党結成に参加,1948年以降たびたび書記長となり,1960年安保闘争の際は委員長。日比谷公会堂で立会演説中,右翼少年山口二矢に刺殺された。
→関連項目建設者同盟風流夢譚事件

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「浅沼稲次郎」の解説

浅沼 稲次郎
アサヌマ イネジロウ


肩書
日本社会党委員長,衆院議員

生年月日
明治31年12月27日

出生地
東京府三宅島(現・東京都三宅村)

学歴
早稲田大学政経学部政治学科〔大正12年〕卒

経歴
早大予科在学中の大正8年建設者同盟を結成、社会主義運動へ。14年農民労働党委員長。昭和8年東京市議。11年衆院議員に当選し、12年再選するが、戦時中は大政翼賛会の推薦が得られず、18年東京都議に転じる。20年8月都議会副議長として敗戦を迎える。同年11月社会党結成大会では司会をつとめ、組織部長に就任。21年総選挙で東京一区から衆院議員に復帰、以後連続7回(通算9期)当選。23年社会党書記長となり、24年の書記長選で鈴木茂三郎に敗れたが、25年再び書記長に返り咲き、30年の社会党統一後は、鈴木委員長とコンビを組み、左右両派の調整役をつとめた。35年3月河上丈太郎と争い委員長に選出されたが、同年10月12日日比谷公会堂で行なわれた3党首演説会で演説中、右翼少年の凶刃に倒れた。同党きっての“雄弁型政治家”であり、下町の人々に愛された清貧の庶民政治家であった。

没年月日
昭和35年10月12日

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20世紀日本人名事典 「浅沼稲次郎」の解説

浅沼 稲次郎
アサヌマ イネジロウ

大正・昭和期の政治家 日本社会党委員長;衆院議員。



生年
明治31(1898)年12月27日

没年
昭和35(1960)年10月12日

出生地
東京府三宅島(現・東京都三宅村)

学歴〔年〕
早稲田大学政経学部政治学科〔大正12年〕卒

経歴
早大予科在学中の大正8年建設者同盟を結成、社会主義運動へ。14年農民労働党委員長。昭和8年東京市議。11年衆院議員に当選し、12年再選するが、戦時中は大政翼賛会の推薦が得られず、18年東京都議に転じる。20年8月都議会副議長として敗戦を迎える。同年11月社会党結成大会では司会をつとめ、組織部長に就任。21年総選挙で東京一区から衆院議員に復帰、以後連続7回(通算9期)当選。23年社会党書記長となり、24年の書記長選で鈴木茂三郎に敗れたが、25年再び書記長に返り咲き、30年の社会党統一後は、鈴木委員長とコンビを組み、左右両派の調整役を務めた。35年3月河上丈太郎と争い委員長に選出されたが、同年10月12日日比谷公会堂で行なわれた3党首演説会で演説中、右翼少年の凶刃に倒れた。同党きっての“雄弁型政治家”であり、下町の人々に愛された清貧の庶民政治家であった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浅沼稲次郎」の意味・わかりやすい解説

浅沼稲次郎
あさぬまいねじろう

[生]1898.12.2. 三宅
[没]1960.10.12. 東京
政治家。 1923年早稲田大学政治経済学部卒業。 25年農民労働党の結成に参加,同書記長となり,のち無産政党の幹部を歴任。第2次世界大戦後,日本社会党の結成と同時にその活動に加わり,48年書記長となり,55年統一後,再度党書記長の座についた。 60年3月社会党委員長。同年 10月 12日,日比谷公会堂で行われた自民,社会,民社3党首演説会で演説中,右翼の少年に壇上で刺殺された。「人間機関車」の愛称で親しまれ,日中国交回復に尽力。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浅沼稲次郎」の解説

浅沼稲次郎 あさぬま-いねじろう

1898-1960 大正-昭和時代の社会運動家,政治家。
明治31年12月27日生まれ。昭和11年社会大衆党から衆議院議員(当選9回)となる。戦後は社会党の結成につくし,23年書記長,35年委員長となり安保闘争を指導。同年10月12日日比谷公会堂での党首立会演説会で右翼の少年山口二矢(おとや)に刺殺された。61歳。追悼集「驀進(ばくしん)―人間機関車ヌマさんの記録」がある。東京三宅島出身。早大卒。著作に「わが言論闘争録」。
【格言など】選挙の際は国民に評判の悪いものは全部捨てていて,選挙で多数を占むるとどんな無茶なことでも……(刺殺される直前の演説)

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旺文社日本史事典 三訂版 「浅沼稲次郎」の解説

浅沼稲次郎
あさぬまいねじろう

1898〜1960
大正・昭和期の革新系政治家
東京都三宅島の生まれ。早大政治学科在学中に建設者同盟を結成,社会主義運動に加わり,労働農民党・日本労農党に属して活躍。第二次世界大戦後,日本社会党の結成に参加し,1948年同党書記長をつとめる。分裂後は右派に属し,'55年再統一に際して書記長に再任,'60年委員長に就任。同年総選挙を前にした10月12日,日比谷公会堂での3党首演説会で演説中に右翼少年に刺殺された。

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367日誕生日大事典 「浅沼稲次郎」の解説

浅沼 稲次郎 (あさぬま いねじろう)

生年月日:1898年12月27日
昭和時代の政治家
1960年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の浅沼稲次郎の言及

【木崎村小作争議】より

…7月25日の上棟式当日,1000名を超える農民デモ隊と取締りにきた警官隊が衝突し,三宅正一ら25名が検挙された(久平橋事件)。その後は浅沼稲次郎,稲村隆一らの指導のもとに,耕作権確立の要求をかかげ,婦人団の上京陳情,新潟高等農民学校設立などをおこない,27年7月には久平橋事件検束者の全員無罪をかちとった。しかし,日農の分裂や,地主団体と密接な連絡をもった警察の徹底した取締りの前に,この争議は県当局の調停にゆだねられ,その結果土地取上げが認められた。…

【農民労働党】より

…このため日農の前川正一らは評議会の自発的脱退,政治研究会の解体という妥協案をつくり,総同盟には加盟勧告をしないことにして,ようやく12月1日農民労働党を結成した。書記長浅沼稲次郎。加盟団体33。…

※「浅沼稲次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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