精選版 日本国語大辞典 「浅沼稲次郎」の意味・読み・例文・類語
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
政治家。明治31年12月27日生まれ、東京府三宅(みやけ)島神着(かみつき)村出身。1923年(大正12)早稲田(わせだ)大学政治経済学部卒業。1919年2月民人同盟会に参加するが、同会は半年余で分裂、浅沼は和田巌(いわお)、田所輝明(てるあき)、三宅正一らと建設者同盟を創立し社会主義運動に踏み出した。当時の信条は機関誌『建設者』の一文「もう議論、理屈は必要ではない……まず行動しろ」からうかがえるが、そのことばどおり日本農民組合、全日本鉱夫総連合のオルグ活動に奔走し、まもなく「演説百姓」の異名をとる。一方、学生戦線では1923年5月の早大軍事研究団反対闘争を指導した。この闘争では右翼学生の暴行を受け、また関東大震災では軍隊に捕らえられ九死に一生を得た。1925年12月日本初の無産政党農民労働党書記長に就任したが、即日解散命令のため「3時間書記長」であった。翌1926年3月創立の労働農民党では組織部長となり、同じころ日農常任委員として新潟県木崎村争議を指導した。ついで無産政党が分立するや、中間派社会民主主義の日本労農党組織部長となり、以後無産政党解散まで麻生久(あそうひさし)と行動をともにした。この間1933年(昭和8)東京市会議員、1936年衆議院議員となる。戦時下、1942年翼賛選挙では非推薦のため立候補を辞退したが、翌1943年都会議員に当選、副議長を務めた。戦後、日本社会党結成に参加、組織部長となり、1948年(昭和23)第3回党大会で書記長に就任、1951年分裂時は右派社会党書記長、1955年統一大会でも書記長に選出され、1960年3月委員長となるまでその地位にあった。党の調整役として「マアマア居士(こじ)」の異名をとったのはこの時期である。衆議院議員としては1946年以来1958年総選挙まで連続7期の当選を数えた。1959年3月中国訪問の際「アメリカ帝国主義は日中共同の敵である」と発言、従来の右派的路線から踏み出し、その立場で60年安保闘争を指導したが、1960年(昭和35)10月12日東京・日比谷公会堂で演説中、右翼の少年山口二矢(おとや)に刺殺された。「人間機関車」「沼さん」と人々から親しまれ、大衆政治家の典型であった。
[荒川章二]
『浅沼稲次郎著『わが言論闘争録』(1953・社会思潮社)』▽『『私の履歴書 第2集』(1957・日本経済新聞社)』▽『浅沼追悼出版編集委員会『驀進』(1961・日本社会党機関紙局)』▽『大曲直著『浅沼稲次郎 その人・その生涯』(1961・至誠堂)』▽『三宅正一著『激動期の日本社会運動史 賀川豊彦・麻生久・浅沼稲次郎の軌跡』(1973・現代評論社)』▽『国会図書館憲政資料室所蔵「浅沼稲次郎関係文書」』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…7月25日の上棟式当日,1000名を超える農民デモ隊と取締りにきた警官隊が衝突し,三宅正一ら25名が検挙された(久平橋事件)。その後は浅沼稲次郎,稲村隆一らの指導のもとに,耕作権確立の要求をかかげ,婦人団の上京陳情,新潟高等農民学校設立などをおこない,27年7月には久平橋事件検束者の全員無罪をかちとった。しかし,日農の分裂や,地主団体と密接な連絡をもった警察の徹底した取締りの前に,この争議は県当局の調停にゆだねられ,その結果土地取上げが認められた。…
…このため日農の前川正一らは評議会の自発的脱退,政治研究会の解体という妥協案をつくり,総同盟には加盟勧告をしないことにして,ようやく12月1日農民労働党を結成した。書記長浅沼稲次郎。加盟団体33。…
※「浅沼稲次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
送り状。船荷証券,海上保険証券などとともに重要な船積み書類の一つで,売買契約の条件を履行したことを売主が買主に証明した書類。取引貨物の明細書ならびに計算書で,手形金額,保険価額算定の基礎となり,輸入貨...
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新