江戸の中心を流れる川に1603年に架けられ、東海道などの起点となった。火災などで架け替えを重ね、現在の石造りの2連アーチ橋は1911年に完成。長さ49メートル、幅28メートルで、青銅製の和漢洋折衷の装飾がある。明治期を代表する道路橋とされ、国道の起点となっている。64年東京五輪に向けた首都高速道路の整備で、用地買収の容易さから川の上空が建設ルートとなり、橋の真上を高架が覆った。
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江戸時代から使われる、日本橋川に架された日本橋を中心とする広域地名。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入部以降最初に町割された地域で、その範囲はおよそ西は江戸城の外堀端、北は神田堀から
現中央区
慶長八年(一六〇三)の創架とされるが(慶長見聞集)、根拠は明らかでない。しかし翌九年に日本橋を起点に各街道に一里塚を築くことが定められている(徳川実紀)。その後、焼失・腐朽などにより近世だけでも十数度の架替えが公儀の費用で行われた。江戸時代初期の様相を伝える出光本江戸名所図屏風や歴博本江戸図屏風においても、繁華な町人地の中心に日本橋が描かれている。またこの一帯は江戸湊の中心であり、橋の下を船が行交うため、石垣状の橋台を高く築き、円弧状に反りのある橋が架けられた。
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東京都中央区の北部,日本橋川にかかる橋の名称であるとともに,旧日本橋区にあたる地名。1603年(慶長8)日本橋が架けられて以来,付近一帯の地名となった。翌年,全国里程の原点と定められ,東海道をはじめとする五街道の起点となった。現在も日本国道路元標が橋のたもとにある。現在のアーチ型石橋は1911年に架けられたもので,長さ49m,幅27m,ルネサンス様式を模している。
浅井了意《江戸名所記》に,人の行きかいは〈螘(あり)の熊野まいりのごとし〉とあるように,江戸の交通・運輸の中心としてにぎわい,橋の南詰には高札場,晒(さらし)場が設けられた。日本橋川を軸にした運河,船入堀べりには魚河岸,米河岸,塩河岸,材木河岸などの河岸が並び,物資の集散に活況を呈した。これに伴って商工業が発達し,近江商人や伊勢商人などの大店が軒を連ね,呉服,木綿,薬種など各種の問屋が集まり,また金座,銀座がおかれた。明暦の大火(1657)以前は遊里吉原があり,近くの葺屋(ふきや)町,堺町には天保の改革まで芝居小屋の市村座,中村座があった。
1878年,東京市の15区の一つとして日本橋区が成立し,その結果,従来は橋の周辺にのみ限定されていた〈日本橋〉の地名が拡大して使用されるようになった。この旧日本橋区に属する地域は,日本および東京の経済・商業活動にとって重要な地域となっている。日本のウォール街といわれる兜町には東京証券取引所を中心に証券会社が,室町から本石町にかけては日本銀行をはじめ金融機関が集中し,中央通り沿いに三越,高島屋,東急日本橋店などの百貨店や大書店の丸善が並ぶ。江戸時代以来の伝統を受けつぎ,横山町,馬喰(ばくろ)町一帯に衣服・雑貨,小伝馬町,本町3~4丁目一帯に繊維,本町1丁目付近に薬種などの問屋が集中している。地下鉄各線や総武線が通じ,東京駅八重洲口にも近い。
なお大阪市中央区には道頓堀川に架かる日本(につぽん)橋があり,近世以来,付近の町名ともなっている。
執筆者:吉原 健一郎+正井 泰夫
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東京都中央区の北半部の地区。また1947年(昭和22)中央区成立前までの旧日本橋区の区域をいう。徳川家康の入府(1590)前は日比谷(ひびや)入り江と隅田(すみだ)川の間の低湿地であったが、入府後は江戸城大手門の東側にあたることから1592年(文禄1)以降、町屋として建設にあたった。江戸城と平(ひら)川河口を結ぶ道三(どうさん)堀を中心として、その北方の常盤(ときわ)橋(浅草口)から奥州街道が通じ、平川の延長の日本橋川には日本橋が架けられ東海道の起点となった。
地名由来の日本橋は、徳川家康が征夷(せいい)大将軍に任じられた1603年(慶長8)に架橋されたといわれ、当時長さ約68メートル、幅約7メートルの木橋であった。現在の石橋は1911年(明治44)に建造されたルネサンス風の名橋で、中央に日本国道路元標がある。日本橋川は江戸随一の河岸でにぎわい、天正(てんしょう)年間(1573~1592)白魚(しらうお)市が開かれ、やがて魚市場として、築地(つきじ)に1935年(昭和10)移転するまで、江戸、東京の台所となった。金貨幣の鋳造所の金座は本町(現、日本橋本石町(にほんばしほんごくちょう))に1595年(文禄4)建立、現在の日本銀行へとかわった。ヨシの生えた湿地の吉原(現、日本橋人形町)には、1617年(元和3)江戸に散在していた遊里をまとめて大遊廓(ゆうかく)がつくられ、また芝居小屋もできるなど江戸町人の町として繁栄を遂げた。なお、吉原は明暦(めいれき)の大火(1657)後、浅草に移り、この地は元吉原とよばれた。
現在も銀行・百貨店などの集中する日本橋本石町、日本橋室(むろ)町、日本橋、繊維・雑貨など卸売り機能の日本橋横山町、日本橋大伝馬町、日本橋堀留町、証券取引きの日本橋兜町(にほんばしかぶとちょう)など東京の中心商業地区であり、江戸の伝統を引き継いだ江戸情緒の町である。かつての水路の多くは埋め立てられ首都高速道路となっている。また地下鉄網が発達し、東京地下鉄銀座線・東西線・日比谷線・半蔵門線、都営地下鉄浅草線・新宿線の各線や総武本線が通る。
[沢田 清]
『田村栄太郎著『銀座・京橋・日本橋』(1965・雄山閣出版)』
泉鏡花の長編小説。1914年(大正3)千章館から書き下ろし出版。大正期の鏡花の花街小説の代表作で、翌年3月には真山青果(まやませいか)脚色で新派が東京・本郷座の舞台にかけ、喜多村緑郎(きたむらろくろう)(お孝(こう))、伊井容峰(ようほう)(葛木(かつらぎ))らで初演。原作は春の1日の午後から夕暮れに至る2、3時間の経過のなかに、幾重にも回想風の叙述が織り込まれる構成だが、戯曲はこれを解きほぐし、医学士葛木晋三をめぐる日本橋の芸者滝の家清葉(きよは)と稲葉屋お孝の恋の立て引きを中心に、お孝が清葉への面当てに情人としている異形の大男伝吉(罷熊(ひぐま))、可憐(かれん)なお酌(しゃく)お千世(ちせ)を配して見せ場も多く、花柳(はなやぎ)章太郎がお千世を演じて出世役となった。17年には鏡花自らが春陽堂刊『戯曲選集』の第四編として脚色、以後この脚本により演出も洗練され、新派古典として繰り返し上演されている。
[土岐迪子]
『『筑摩現代文学大系2 泉鏡花他集』(1977・筑摩書房)』
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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…徳川氏は江戸を関八州の中心にしようと,低湿地の埋立て,船入堀の造成,橋の架設などを行った。神田湯島台などに屋敷地が造成されて三河などから家臣団を受け入れ,また日本橋辺の町地には畿内や東海地方からの商人が移住するようになった。しかしまだ江戸の町づくりは本格化していなかった。…
…鋸と竹鋸が左右に置かれ,本来往来の者に首を挽かせた形式をとどめている。陸晒,穴晒とも江戸では日本橋南詰東側,高札場の向いに設けられた晒場で執行した。同様の刑は諸藩法にも定められ,さらには村法上の制裁や私刑としても存在した。…
※「日本橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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