岐宿村(読み)きしくむら

日本歴史地名大系 「岐宿村」の解説

岐宿村
きしくむら

[現在地名]岐宿町岐宿郷きしくごう

現岐宿町域の北部東側に位置する。北は東シナ海に臨み、北西方にひめ島が浮ぶ。西部にななッ岳・ちちヶ岳、東部にから嶽などがあり、いちかわ川・うらノ川・わに川・小川原こがわら川・大川原おおがわら川が流れ、岐宿湾および白石しらいし浦に注ぐ。史料上は鬼宿とも記される。水垂みずたれに古代に南路をとった遣唐使船が寄港したとされる地があり、延暦二三年(八〇四)空海が航海の安全を願って宮小みやこ島に巌立いわたて権現を創祀したという伝承など、最澄・空海にまつわる所伝がある。岐宿と河務こうむの中間に空海が立寄ったところという笠はずしという地名があり、通行人は笠を取って一礼して通る習わしであったという。中世は青方氏の勢力下にあったとされ、永徳三年(一三八三)宇久うく(現宇久町)から宇久氏八代という覚(嘉慶二年没)が当地のしろ(二一六メートル)に拠点を移したと伝える。地内の金福きんぷく寺は覚が開基とされ、その墓と伝える五輪塔二基分(花崗岩製)のうち、水輪・風輪・空輪は一四世紀後半から一五世紀前半頃に畿内近国で造立されたと推定される(笠は一六世紀あるいは江戸時代の造立のものであろう)。嘉慶二年(一三八八)九代とされる宇久勝は深江の辰ふかえのたつくち(現福江市)を築いて移ったとされるが、宇久氏は応永二〇年(一四一三)または文明三年(一四七一)頃まで宇久島にいたとも推定される。慶長三年(一五九八)みや町の本宮ほんぐう(現廃寺)の頼延は文禄の役で没した五島純玄、慶長の役で戦功をあげた玄雅の供養と、村中の済度祈願のために境内に六地蔵を造立している。

江戸時代は福江藩領で、岐宿掛の代官所が当地に置かれた。岐宿の村名は河務村などの諸村を含む総称として扱われる場合がある。慶長国絵図に「岐宿」とみえ、高一千五九八石余。万治二年(一六五九)惣高積之帳に岐宿領とあり、正保国絵図の高一千四五石余、今高一千五九六石余と記される。また岐宿領のうちとして「岐宿地下村」とみえ、正保国絵図の高五三〇石余、今高は六九九石余。万治年間とされる五島一円惣高帳では岐宿村として高六九九石余、うち蔵入地二八二石余・給地二〇五石余・寺社領六六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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