岡本黄石(読み)おかもとこうせき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡本黄石」の意味・わかりやすい解説

岡本黄石
おかもとこうせき
(1811―1898)

江戸後期の彦根(ひこね)藩家老。家老宇津木久純(ひさずみ)の第4子。名は宣迪(のぶみち)、字(あざな)を吉甫(きちほ)、通称半介。950石取。1822年(文政5)藩士岡本業常(なりつね)の養子となる。36年(天保7)中老、51年(嘉永4)家老格、翌年家老となる。梁川星巌(やながわせいがん)に師事し、多くの志士と交わって尊攘(そんじょう)思想の影響を受け、藩主井伊直弼(なおすけ)に忌まれ、退けられていたが、桜田門外の変(1860)後、藩政に復帰して混乱を収め、62年(文久2)8月直弼の側近を更迭し藩政を主導した。幼主直憲(なおのり)を補佐し、戊辰(ぼしん)戦争では朝廷側にたたせた。著書に『黄石斎詩集』がある。墓所は東京・世田谷(せたがや)の豪徳寺。

[藤田恒春]

『『近江人物志』(1917・滋賀県教育会)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡本黄石」の解説

岡本黄石 おかもと-こうせき

1812*-1898 幕末-明治時代武士,漢詩人。
文化8年11月21日生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩家老。梁川星巌(やながわ-せいがん)に師事。大橋訥庵(とつあん)ら尊攘(そんじょう)派とまじわったため,藩主井伊直弼(なおすけ)にうとまれた。桜田門外の変に際して藩士の鎮静につとめ,藩政を主導。戊辰(ぼしん)戦争で新政府側について出兵した。維新後は東京に麹坊(きくぼう)吟社をおこした。明治31年4月12日死去。88歳。本姓は宇津木。名は迪,宣迪。字(あざな)は吉甫。通称は半助。著作に「黄石斎詩集」。

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367日誕生日大事典 「岡本黄石」の解説

岡本 黄石 (おかもと こうせき)

生年月日:1811年11月21日
江戸時代;明治時代の近江彦根藩士
1898年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の岡本黄石の言及

【漢詩文】より

…【日野 竜夫】
【近代】
 明治は漢学愛好の時代であり,漢詩文は江戸期に劣らず隆盛であった。漢詩ではまず小野湖山,岡本黄石,大沼枕山(ちんざん)らが現れ,陸游,蘇東坡(蘇軾(そしよく)),黄山谷(黄庭堅)らの宋詩を重んじて詩壇を指導した。ついで現れた森春濤(しゆんとう)・森槐南(かいなん)父子は婦女子の恋愛の感情を詠んだ香奩(こうれん)体の詩や,袁枚(えんばい),趙翼,張船山(張問陶),王漁洋(王士禎)らの清詩をさかんに鼓吹し,本田種竹らとともに明治詩壇(ことに後期)における清詩の流行をもたらした。…

※「岡本黄石」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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