島原城跡(読み)しまばらじようあと

日本歴史地名大系 「島原城跡」の解説

島原城跡
しまばらじようあと

[現在地名]島原市城内・先魁町・北門町

もり(二七メートル)にあることから森岳もりたけ城とも称し、また高来たかく城ともいう。森岳は天正一二年(一五八四)沖田畷おきたなわてでの戦で有馬・島津両氏の軍勢が本陣を置いており、「有馬晴信記」に「島原森嶽」とみえる。この当時島原の城というのは島原湾に臨むはまの城(現弁天町付近とされる)をさす場合が多い。有馬氏の時代には日野江ひのえ(現北有馬町)をおもな拠点としたが、元和元年(一六一五)入封の松倉氏は森岳城を増改築し、島原領経営の政庁とした。当城主は譜代大名として島原城に入った高力氏以後、長崎奉行とともに長崎の警衛の中心的役割を果すこと、および長崎奉行や九州の外様大名を監視することを命じられていた。

〔松倉氏と島原の乱〕

慶長一九年(一六一四)有馬氏は日向国あがた(現宮崎県延岡市)移封に伴い旧領は一時期幕府領となり、大村氏が四ヵ村を管轄したのをはじめ、松浦氏・鍋島氏の三氏による預地となった(「大村見聞集」など)。元和二年松倉重政が四万石で入国し、島原の浜ノ城に居を置いている。すでに中世以来の有馬氏の拠点である日野江城などを用いるについては、領内の南に偏り、規模・形式ともに不適当と考えていたらしく、同四年より島原の森岳に築城を始め、七ヵ年を要して完成(有馬古老物語)、島原藩の政庁とし、以後幕末に至るまで島原半島の政治の中心となり、島原城下の建設によって経済・流通および文化の拠点ともなっていった。元和七年重政は平戸のイギリス商館に重臣を派遣し、商館に便宜をはかる用意があること、また金銭的援助も惜しまないという意向を伝えている(イギリス商館長日記)。寛永七年(一六三〇)には長崎奉行竹中采女正と共同でルソン島遠征を企画し、急病で果せずに病死しているが、幕府にはキリシタン禁圧のための渡海と説明しているものの、やはり海外交易が目的であったらしい。村方の支配は、有馬村、山田やまだ村・守山もりやま(現吾妻町)野井のい村・愛津あいつ(現愛野町)など五ヵ村に代官二名を置き、村には相庄屋を置いた場合もあった(「高来郡一揆之記」島原半島史)

次の勝家(重次)の代にはキリシタンへの弾圧がより厳しくなっていたが、寛永一四年に島原の乱が起き、同一五年松倉氏は所領没収となった。乱勃発の背景には森岳城の築城に伴う重税や夫役の負担があったとされるが、それは竹中采女正の失脚に伴う藩財政の収入減に加えて、寛永一二年の参勤の制度化に伴う出費、同一三年の江戸城御手伝普請への出費、同年の台風や同一四年の旱魃などによる年貢の収納減があったとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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