島原城下(読み)しまばらじようか

日本歴史地名大系 「島原城下」の解説

島原城下
しまばらじようか

島原半島の東部、島原城の南方を中心に建設された島原城の城下町。城下の地は島原村域の中央部で、東部は海に臨む。

〔城下の建設と規模〕

元和二年(一六一六)島原に封じられた松倉重政は、あらたにもり岳に築城を始め、併せて城下町の建設に着手した。旧記書抜御用向(中村家文書)には「御築之砌、市中御取立ニ付、由緒御糺之上、御召出相成、銘々町人共召連、当御城下江移住仕」と記される。また日野江ひのえ城下(現北有馬町)の有馬の町民も移住してきたと伝える(「深溝世紀」文政二年一〇月条)。寛永四年(一六二七)の筑前筑後肥前肥後探索書(九州史料叢書)によれば、城の北側に侍町、城東から城南にかけて町屋が割られ、南東から東にかけては入江があって船湊が置かれ、また塩浜が造成されていた。町屋は南北一三町で、家数約一千軒。城西は部卒の集住地で、鉄砲てつぽう町または足軽屋敷と称していた。城東の商人地には有馬ありま町・三会みえ町・なか町・かた町・みやノ町・町があり、大手おおて川より南にはさくら町・ふる町・白土しらち町および白土船津しらちふなつ町と続き、さらに下手によろず町・古町(堀町)しん町・風呂屋ふろや町・魚屋うおや町が連なっていた。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図では北西部に「城形」とあり、その南方に番所および古城と記され、南東部に入江が広がっている。江戸前期の島原城廻之絵図(熊本県立図書館蔵)では本丸の東に三会町・有馬町、その北東に深田・畠を挟んで田町が記される。

寛政四年(一七九二)四月の島原惣町絵図(長崎市立博物館蔵)では島原城の北東に有馬町・三会本町・三会中町・三会片町や本町ほんまち小路・宮ノ町があり、その北東に猛島たけしま社・五社ごしや宮が鎮座している。城の南に風呂屋町・新町本町・万町・桜町・ほり町・古町・かみ町などが続き、これらの北西に浄源じようげん寺・安養あんによう寺・快光かいこう院・崇台そうたい寺・和光わこう院が並び、島原村境ともなっている。ただし城下町に接して島原村側にも善法ぜんぽう寺・光伝こうでん寺・薬師堂・護国寺が建ち、南方にも桜井さくらい寺・江東こうとう寺がみられ、城下の西を囲むような形をとっている。城下の東手は海に臨み、船津町・船津など湊町を形成している。沖にたか島が突き出ており、さらにその東方に砂洲がみられ、塩浜と記されている。同年の島原大変以前の島原城下図(荒木家蔵)には「鉄砲町田町先蒐船倉柏野奉公人屋敷」、三の丸の東に「先蒐丁」とあり、その南に「田屋敷」、その西に「釣鐘丁」、東に諫早いさはや門柳茶屋を挟んで「本丁」がみえ、また三の丸の西に「桜馬場」「西片原町」があり、その北に普請方と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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