日本歴史地名大系 「島原市」の解説 島原市しまばらし 面積:五九・二三平方キロ島原半島の東部に位置する。東は有明海に臨み、北から西にかけては有明町・国見(くにみ)町、西部は千々石(ちぢわ)町・小浜(おばま)町、南は深江(ふかえ)町と接する。普賢(ふげん)岳を最高峰とする雲仙(うんぜん)岳の東に広がる島原扇状地を市域とし、中野(なかの)川・西(にし)川・中尾(なかお)川・大手(おおて)川・白水(はくすい)川・新湊(しんみなと)川・鮎(あゆ)川などが東流して有明海に注いでいる。扇端部は湧水が豊富で、水都島原の名のゆえんとなっている。普賢岳の東方に七面(しちめん)山(八一八・七メートル)・天狗(てんぐ)山(六九五メートル)の二峰からなる眉(まゆ)山がある。海岸沿いに国道二五一号が通り、それに沿って海岸部を島原鉄道が通る。市域の南東部で同五七号が分岐して雲仙岳の南を横断、雲仙観光の幹道となっている。北部および中央部には主要地方道の愛野(あいの)―島原線(通称開拓道路)や、県道の礫石原(くれいしばる)―松尾(まつお)停車場線、同野田(のだ)―島原線(通称雲仙グリーンロード)、千本木(せんぼんぎ)―島原湊線が通る。〔原始・古代〕市域の北部の三会(みえ)・杉谷(すぎたに)地区に古代の遺跡が多くみられるが、長貫(ながぬき)町では旧石器時代の石器が発見され、礫石原遺跡では縄文時代晩期の方形石組遺構を中心とした墳墓群が検出されている。杉谷地区では縄文晩期の肥賀太郎(ひかたろ)遺跡がある。三会下町(みえしたまち)遺跡は縄文時代の海浜部に立地し、長期にわたって継続した中心集落であった。市域南部の安中(あんなか)地区では縄文時代晩期の中南(なかみなみ)遺跡などがある。弥生時代には三会地区の西川・中野川の流域に遺跡が集中しており、なかでも景華園(けいかえん)遺跡は前期から終末期にわたる島原半島内の最大規模の遺跡で、支石墓や甕棺が検出され、副葬品の甕棺・銅剣・銅鉾や勾玉などから北九州のクニの王墓を思わせる。このうち銅剣は弥生中期の甕棺墓の副葬品とされ、同じく埋納遺構から出土したと推定されている中細形銅矛とともに、当時の有力者の存在を想定させる。古墳時代には目立った遺跡は確認されていないが、三会の稗田原(ひえたばる)遺跡では竪穴住居の床面から四世紀後半に比定される古式土師器の一括資料が出土しており、県下ではこの時期の類例が比較的少ないことから、住居跡の発見とともに貴重な遺跡となっている。律令制下では高来(たかく)郡のうちで、「和名抄」に記される高来郡内の野鳥(のとり)郷を市域に比定する説があり、また古代の西海道の野鳥駅(「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条)が置かれたとも想定されている。この駅の所在地は国見町域あるいは千々石町域とする見解もあるが、いずれにせよ肥後国高屋(たかや)駅(現熊本県三角町)へは有明海を渡海したので、宇土(うと)半島との間に安定した航路があったことが知られる。 島原市しまばらし 2006年1月1日:島原市が南高来郡有明町を編入⇒【有明町】長崎県:南高来郡⇒【島原市】長崎県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島原市」の意味・わかりやすい解説 島原〔市〕しまばら 長崎県南東部,島原半島東岸にある市。 1940年市制。 1955年三会村,2006年有明町をそれぞれ編入。南西部の雲仙岳山麓から眉山,舞岳,さらに有明海に向かい,ゆるやかな斜面をもつ扇状の地形が広がる。寛政4 (1792) 年の眉山の爆発は「島原大変」として有名。有明海に浮かぶ九十九島はその際に崩壊した岩石が流出して形成されたもの。眉山の東側斜面にある中央市街地はかつては島原藩の城下町で,天守閣が復元された島原城,江東寺,島原武家屋敷跡,旧島原藩薬園跡 (国指定史跡) など江戸時代の町並みの名残りがある。付近には島原温泉もあり,観光客が多く訪れる。島原湾の湾岸地域は商工業の中心地で,豊富で清冽な湧水を利用した缶詰,酒醸造などの工業が発達。北部には臨海工業地区をもつ島原新港があり,食品コンビナートの形成が進んだ。北東部には県内随一の生産量を誇る肥沃な畑作地帯があり,ダイコン,ニンジン,ハクサイなどの野菜を生産。畜産や,遠浅を利用したノリの養殖も行なわれる。 1990年雲仙岳が 200年ぶりに噴火 (→平成新山 ) ,1991年には噴火による火砕流,土石流で上木場,千本木,水無川流域に大きな被害をもたらした。眉山など南西部は雲仙天草国立公園に属する。海岸沿いを島原鉄道,国道 251号線が通り,57号線が分岐する。面積 82.96km2。人口 4万3338(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by