島原藩(読み)しまばらはん

改訂新版 世界大百科事典 「島原藩」の意味・わかりやすい解説

島原藩 (しまばらはん)

肥前国長崎県)南高来郡島原に藩庁を置いた譜代中藩。戦国時代この地方を領有した有馬氏は,1614年(慶長19)直純のとき日向延岡に転封となり,代わって16年(元和2)大和五条より松倉重政が入封した。石高は4万石。重政は入部後,島原に新しく森岳城を建設し城下町を整備して藩政の確立につとめる一方,過酷な年貢増徴策とキリシタン弾圧を開始した。そのため37年(寛永14)子勝家のとき島原の乱勃発し,翌38年勝家は改易となった。同年遠江浜松より高力(こうりき)忠房が4万石で入封,以降島原藩は譜代藩領となる。忠房はもっぱら島原の乱後の復興策にあたり,盛んに住民を招致して百姓経営数の確保につとめたが,68年(寛文8)子の高長のとき改易となり,代わって翌69年丹波福知山より松平忠房が入封した。石高は6万5900石。このとき豊前宇佐郡および豊後国東郡の一部が加増された。忠房は貢租制度や村役人の制度を整備し,2代忠雄は宝永検地を実施して島原藩政の基礎を固めた。忠雄以降島原藩は養子が続き,1749年(寛延2)5代忠祗(ただまさ)は幼少のため下野宇都宮に転封となり,代わって同地より戸田忠盈(ただみつ)が入封した。石高は7万7850石。しかし,74年(安永3)子の忠寛の代に,宇都宮の松平氏と再び交換転封となり,以降島原藩は松平氏7代を経て明治維新を迎えた。

 島原に再入封した6代忠恕(ただひろ)の時代,92年(寛政4)雲仙岳が大爆発して被害は肥後,天草にもおよび,藩財政の窮乏を促進した。7代忠馮(ただより)は藩政改革を実施し,三府法(糺司,勘定,米金の三府)によって財政運用の適正化を図る一方,農民永保法(相続方仕法)を施行して農村の救済にあたったが,疲弊した農村は容易に復興しなかった。9代忠誠(ただなり)以降,藩主の早世が続いたが,13代藩主忠和は水戸藩主徳川慶篤の弟(斉昭十六男)で,徳川一門から藩主を迎えることによって,幕末島原藩の政情を不安定かつ複雑なものとした。1871年(明治4)廃藩置県によって島原県となり,のち長崎県に編入。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島原藩」の意味・わかりやすい解説

島原藩
しまばらはん

肥前国(長崎県)島原半島に置かれた藩。戦国大名の有馬晴信(ありまはるのぶ)が、豊臣(とよとみ)秀吉によりこの地に所領(4万石、のち3万8000石余)を安堵(あんど)されたが、岡本大八事件で失脚、その子直純(なおずみ)は日向(ひゅうが)(宮崎県)延岡(のべおか)に転封。1616年(元和2)大和(やまと)(奈良県)五条から松倉重政(しげまさ)が4万石で入部。島原城を建設したが、その重い農民への課役は、島原・天草一揆(あまくさいっき)の一因ともなった。次代勝家が乱の責任を問われて改易ののち、1638年(寛永15)浜松より譜代(ふだい)大名高力(こうりき)氏が4万石で入封して貢租免除で農民移住を図るなど農村復興に努めた。68年(寛文8)高力高長が改易となり、翌年福知山(ふくちやま)から松平(深溝(ふこうず))忠房(ただふさ)が6万5900石で入封、長崎警備とともに九州諸大名の監視にあたり、さらに領内検地など藩制整備に努めた。1749年(寛延2)忠祇(ただまさ)のとき宇都宮の戸田忠盈(ただみつ)と交替転封となった(7万7800石)が、74年(安永3)ふたたび戸田氏と交替転封されて松平忠恕(ただひろ)が藩主となった(7万石、ほかに預地高2万3000余石)。幕末に至る藩政は財政危機に加えて自然災害が相次ぎ、とくに1792年(寛政4)の雲仙岳(うんぜんだけ)大爆発は、「島原大変、肥後迷惑」といわれる大災害となり、藩政を窮迫させた。文化(ぶんか)年間(1804~18)の財政改革で国産方御役所や公事方(くじかた)役所を設置し、領内の殖産興業や裁判の公正を図り、「農民永保法」で櫨(はぜ)の増産を、さらに米や大豆の江戸直送体制の確立などを試みたが、めぼしい成果はみられないまま、1871年(明治4)廃藩となった。同年7月島原県となり、11月長崎県に併合された。

 松平氏は忠房以来、好学の藩主が多く、1793年藩校の稽古(けいこ)館を設置し、1821年(文政4)にはそこから医学校として済衆館が独立した。藩校の蔵書約1万冊は「松平文庫」として島原公民館に収蔵されている。

[加藤 章]

『『長崎県史 藩政編』(1973・吉川弘文館)』『外山幹夫・加藤章他編『長崎県の歴史と風土』(1981・創土社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「島原藩」の解説

しまばらはん【島原藩】

江戸時代肥前(ひぜん)国南高来(みなみたかき)郡島原(現、長崎県島原市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は稽古館(けいこかん)。戦国時代からこの地域を治めていた有馬氏が1614年(慶長(けいちょう)19)に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となったあと、天領となっていたが、16年(元和(げんな)2)に松倉重政(しげまさ)が大和(やまと)国五条から4万石で入封(にゅうほう)して立藩。当初、藩庁は日野江(ひのえ)城(現、南島原市)におかれたことから、日野江藩と呼ばれた。重政は有馬氏の居城であった日野江城が手狭だったため、24年(寛永(かんえい)1)に島原城を完成させて入城、城下町の整備を進める一方、過酷な年貢取立てとキリシタンの弾圧を行った。2代藩主勝家(かついえ)も同様の圧政を繰り返し、島原の乱が勃発。天草四郎(あまくさしろう)を総大将とする反乱が鎮圧されたあと、勝家は斬首刑に処せられ、松倉氏は改易(かいえき)された。代わって、38年に譜代の高力忠房(こうりきただふさ)が入封、以後、松平(深溝(ふこうず))氏、戸田氏の入転封を経て、1775年(安永4)に松平(深溝)氏が再入封、忠恕(ただひろ)が6万5000石で入った。その後は明治維新まで松平氏8代が続いた。92年(寛政(かんせい)4)に起きた普賢岳の大爆発は藩財政に大きな打撃を与えた。1871年(明治4)の廃藩置県により、島原県を経て長崎県に編入された。

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百科事典マイペディア 「島原藩」の意味・わかりやすい解説

島原藩【しまばらはん】

肥前(ひぜん)国島原に藩庁をおいた。藩主は外様(とざま)の有馬氏・松倉氏,譜代(ふだい)の高力氏・松平(深溝)氏・戸田氏・松平(深溝)氏と変遷。松倉氏は島原城の建設,城下町整備に努めたが,そのための過酷な重税とキリシタン弾圧に抵抗して,1637年島原の乱が起き除封された。1792年に雲仙(うんぜん)岳が大噴火し藩財政をより窮乏化させた。
→関連項目天誅組肥前国益田時貞

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島原藩」の意味・わかりやすい解説

島原藩
しまばらはん

江戸時代,肥前国高来 (たかく) 郡島原地方 (長崎県) を領有した藩。キリシタン大名有馬氏の故地へ元和2 (1616) 年に大和二見五条から松倉重政が4万石で入封,その子勝家の過酷な政治に対して寛永 14 (37) 年島原の乱が起り,松倉氏はその責により翌年除封となり,次いで高力 (こうりき) 氏が4万石で入封,寛文8 (68) 年悪政により除封,のち松平 (深溝) 氏6万 5900石,戸田氏7万 7800石を経て,松平 (深溝) 氏が7万石で再封,廃藩置県にいたる。松平氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「島原藩」の解説

島原藩

肥前国、島原(現:長崎県島原市)を本拠地として島原半島を治めた藩。当地は戦国時代から有馬氏の所領だったが、国替えにより転封。天領を経て、元和年間に大和国から松倉重政が4万石で入封し、雲仙岳の麓に島原城(森岳城)を築いた。松倉氏は1637年の島原の乱により改易。以後の藩主に、高力(こうりき)氏、松平(深溝(ふこうず))氏など。

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世界大百科事典(旧版)内の島原藩の言及

【肥前国】より

…しかし37‐38年の島原の乱の責任を問われて改易になり,38年に遠江浜松の高力忠房が配された。以後島原藩は高力,松平(深溝(ふこうず)),戸田,松平(再封)の譜代大名が同地を統治した。平戸では松浦党に由来する松浦氏が隆信のときに一族や諸豪族を服属させ,壱岐をも支配下においた。…

※「島原藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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