豊臣秀吉に次いで江戸幕府が,直轄地である長崎においた地方長官。江戸幕府の遠国奉行の一つで老中に属した。初代は1592年(文禄1)秀吉が任じた肥前唐津城主寺沢広高で,江戸開幕から鎖国までは,徳川家康の侍妾お夏の兄である長谷川藤広,甥の権六,豊後府内藩主竹中重義に代表される側近的奉行で,幕府による貿易の掌握,キリシタン禁制にらつ腕をふるい,御用物調達や外国関係事件の処理をめぐって職権を関係諸藩に行使し,またみずから貿易経営者でもあった。鎖国とともに1633年(寛永10)より定数2名(在府1,在勤1)となり,キリシタン・異国船警備,やがて抜荷取締りを中心に西国大名への指揮監察権が強化された。その後定員は86年(貞享3)に3人,貿易利銀の運上が軌道に乗った99年(元禄12)には4人に増え,席次は江戸町奉行に次ぎ,京,大坂の各町奉行の座上であった。1713年(正徳3)に3名,翌年2名となり,貿易の衰退によって1843年(天保14)には1名となったが,外交の緊迫化に伴い46年(弘化3)2名に復し,63年(文久3)攘夷決行令によって長崎市中の混乱が予想されると,隣接の大村藩主純煕を充て,総奉行に任じた(64年解除)。
身分格式面では,寺沢,竹中,大村の3氏が外様大名であるのに対し,他の123人はすべて5000石から100俵までの旗本御家人から抜擢(ばつてき)された者で,1690年から諸大夫に叙せられたので役高1000石となった。前職や在任期間からみた特徴は,18世紀初頭の正徳期までは,目付など番方出身で高禄,在任期間も一般に長い。これに対し長崎の諸制度が確立した後の,貿易縮減期の享保以降には,勘定奉行兼帯の松浦信正,石谷清昌をはじめ勘定所出身者が多く(のち20余名が勘定奉行になった),比較的微禄で任期は短い。例えば,寛永鎖国令の定着を図った馬場利重,糸割符廃止の黒川正直,市法貿易法制定の牛込重忝(しげのり),定高制・唐人屋敷設定の川口定恒らはいずれも在任10年以上の熟達者で,正徳新例の立役者大岡清相も6年間立案施行にあたり現職中に病没した。幕末には《清俗紀聞》〈長崎覚書〉などの著者中川忠英,シーボルトに鳴滝塾など出島外での活動を許した高橋重賢,フェートン号事件の責を負って自害した松平康英などが有名であるが,収賄事件関係者も少なくない。鎖国直後と幕末には下僚として与力・同心,または出付出役が置かれたが,おおむね家老・用人以下の家臣(給人)が手足となって,町年寄以下の町役人を支配した。しかし家臣団は数十人を超えず,貿易取引の実務には経験不足のため,奉行を含めて,町年寄や会所役人などの伺をほぼそのまま裁可するか,幕府へ取り次ぐのが実態であったようである。年収は本高に役高1000石,幕末には役料米2000俵に役金3000両であったが,むしろこのほかに町民や外国人からの八朔礼銀,貿易品の先買特権(調物)による収入などの比重が大であった。
執筆者:中村 質
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江戸幕府の職名。遠国(おんごく)奉行の一つ。豊臣(とよとみ)政権から引き続き長崎代官の地位にあった肥前唐津(からつ)城主寺沢広高を起源とする。当初は一人役、1633年(寛永10)に二人役となった。以後一人、三人、四人役の時期もあったが、一般に二人役をもって定数とした。このうち1人は長崎に在勤、1人は江戸役宅に勤務、毎年9月に長崎で交代した(1744年〈延享一〉に10月交代となる)。老中支配、役高1000石、役料4402俵1斗、諸大夫(しょだいふ)、芙蓉(ふよう)間詰。属僚に与力(よりき)10騎、同心30人があり(幕末に長崎奉行支配組頭、同支配調役など設置)、御用物役、町年寄をはじめ地役人(じやくにん)を支配し、長崎の貿易、外交、司法、海警、町方行政、計理、地役人人事など行政上の万般をつかさどった。役料のほか公認の収入に、8月朔日(ついたち)に地下(じげ)諸役人、町人、内地商人、唐商、蘭人(らんじん)から贈られる金品「八朔(はっさく)礼銀」、輸入品の元値先買特権であるいわゆる「除き物」の一つである「御調物(おしらべもの)」からあがる益銀、また諸藩からの付け届けがあった。まだこのほかにも相当の裏収入があったものと推測される。役屋敷は岩原郷立山(たてやま)の立山奉行所、外浦(ほかうら)町の西奉行所の2か所であった。目付はじめ役方・番方諸役から補任(ぶにん)されたが、離任後は享保(きょうほう)(1716~36)ころまで退役者が目だち、そののち幕末にかけては勘定(かんじょう)奉行など諸役へ昇進・転出した。
[北原章男]
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豊臣秀吉,ついで江戸幕府が設置した直轄地長崎の地方長官。長崎はポルトガル人の来航地で海外貿易が行われていたことから,貿易を担当し,ポルトガル人を監視する役職として重視された。江戸初期には徳川家康の側近などが任命されて貿易品の購入にあたったが,3代家光の時期には旗本2人が任命され,長崎の市政や貿易を担当するほか,西国のキリスト教徒の探索や,異国船警備に関して九州大名の指揮にあたる任務が加わった。以後は貿易統制の諸政策を監督し,密貿易の取締りにもあたった。遠国奉行の一つで,老中に属し,定員2人。役高は1000石で,席次は町奉行につぎ,諸大夫に任じられた。前期は目付出身者が多く,しだいに勘定所出身者が増加した。
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…死刑につぐ重刑とされ,田畑家屋敷家財を闕所(けつしよ)(没収)し,刑期は無期で,赦(しや)によって免ぜられたが,《赦律》(1862)によれば,原則として29年以上の経過が必要であった。全国に散在する幕府の奉行,代官の役所を近江を境に東西に分け,美濃以東の役所で判決した罪人は江戸小伝馬町牢屋に,近江以西の場合は大坂の牢屋に集めたが,長崎奉行だけは直接島に送った。京都から大坂に流人を移すのに高瀬舟が使われたのは名高い。…
…江戸初期の旗本,長崎奉行。生没年不詳。…
…地役人には広間役,吟味方役,御金蔵定役,印銀所定役,目付役,定勘定役などがおり,禄高95俵を最高に並役20俵三人扶持,ほかに役料も給された。長崎奉行所には普請方役,筆者,籠番,船番,蔵番,阿蘭陀(オランダ)通詞,唐通事などがいた。また,代官所の地役人のなかには幕末になると手付,手代に昇格する者もかなりいた。…
…江戸時代,唐通事・蘭通詞が作成し,長崎奉行を経て幕府勘定所に進達された《唐船貨物改帳》《阿蘭陀船荷物売立寄帳》など7種の帳簿を,暦の年度に従って仕分け表題したもの。唐・蘭船の積荷品目・数量,売上品の数量・代価,輸出する日本商品の数量・代価などを克明に記帳する。…
…1644年明清革命の情報記事から1724年におよぶ記事が収録されている。長崎入港唐船の1船ごとに,長崎奉行が唐通事に聴取・訳出・調整のうえ,江戸幕府に上達したものである。大陸を中心とする内外情勢の情報,スペイン,ポルトガル等天主教国の動静,ことに日本への行動について,またヨーロッパ人の東洋における活動や漂流に関する詳報を提出させて,キリスト教の禁制,密貿易防止の資としたもので,〈オランダ風説書〉とほぼその性質由来を同じくする。…
…江戸時代の長崎奉行所の判決記録。長崎奉行は直轄地長崎および周辺の長崎代官管地の事件一般のほか,西国の宗門・抜荷関係については大坂町奉行と分掌した。…
※「長崎奉行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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