島原村(読み)しまばらむら

日本歴史地名大系 「島原村」の解説

島原村
しまばらむら

[現在地名]島原市南柏野町(みなみかしわのまち)・北原町(きたばらまち)・緑町(みどりまち)・弁天町(べんてんまち)・新馬場町(しんばばまち)・城見町(しろみまち)・南下川尻町(みなみしもかわしりまち)・八幡町(やはたまち)・小山町(こやままち)・浦田(うらだ)・柿の木町(かきのきまち)・栄町(さかえまち)・下折橋町(しもおりはしまち)・下川尻町(しもかわしりまち)・広馬場町(ひろばばまち)・新田町(しんでんまち)・萩(はぎ)が丘(おか)・上の原(うえのはら)・白山町(はくさんまち)・萩原(はぎわら)・今川町(いまがわまち)・本光寺町(ほんこうじまち)・崩山町(くえやままち)・湊道(みなとみち)・西八幡町(にしやはたまち)・坂上町(さかうえまち)・坂下町(さかしたまち)・湖南町(こなんまち)・高島(たかしま)など

現島原市域の東部中ほどに位置し、東部は海に臨む。西部には七面(しちめん)山・天狗(てんぐ)山などがある。地名は中世よりみえ、近世には村域内に島原城下が建設された。小山に中世の小山館の跡があるという。本光寺域は戦国期に丸尾(まるお)城が築かれていた地で、天正一二年(一五八四)に龍造寺隆信による島原進攻の際の古戦場。北門(きたもん)に隆信の戦死跡と伝える地がある。上の原の祇園(ぎおん)山に祇園社が祀られ、島原に初めてキリスト教を宣教したルイス・デ・アルメイダが永禄九年(一五六六)に送った書簡(島原半島史)やフロイス「日本史」に、種々の作り物をもった行列が練り歩くという祭礼が紹介されている。一五九二年(文禄元年)有馬(ありま)のカーザ(修院)の下に島原、加津佐(かづさ)(現加津佐町)など五ヵ所の布教機関(レジデンシア、セミナリオ)があり、教会四八ヵ所・信徒六万八千人余を管轄していたという(シュッテ「日本歴史史料集」I)。一六一二年(慶長一七年)の迫害前は島原などに布教機関としてレジデンシアが置かれていた。

元和三年(一六一七)のイエズス会管区長宛のキリシタン連判書付に「島原町」の内堀宗巴寿庵・広瀬又左衛門かすはる・西田休巴はうろ・かんほうミける常喜らキリシタン一一名が署名している。これは迫害の時代にあってもイエズス会の神父らが信者らの信仰のために尽力していることについて、指導的な信者たちが署名したもの。また同年のローマ教皇パウロ五世の迫害を慰問する勅書に対する同六年の日本信徒奉答文(ヴァチカン古文書館バルベリニ文書)に「島原村」の内堀作右衛門尉(はうろ)・塩塚与市(しゅあん)・西田休巴(はうろ)が署名している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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