日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルメイダ」の意味・わかりやすい解説
アルメイダ(Luis de Almeida)
あるめいだ
Luis de Almeida
(1525―1583)
ポルトガルの貴族。インドから日本に渡り、当初平戸(ひらど)(長崎県)で貿易に従事していた。リスボンで得た外科医の資格を活用して日本でのキリスト教布教に尽力し、私財を投じて平戸に育児院、府内(大分県)にらい病院、普通病院を建設して治療や医員の養成にあたった。検脈、検尿、薬物投与といったヨーロッパ診断学を導入、当時五島(ごとう)(長崎県)などに行われていた漢方医学や呪禁(じゅごん)医療を圧した。1555年(弘治1)イエズス会に入会、1580年(天正8)マカオに渡り司祭に叙階された。彼の足跡はほとんど九州全土に及んでいるが、とくに横瀬浦、口之津、島原、長崎、五島(以上長崎県)、志岐(しき)、本渡(ほんど)(以上熊本県)、秋月(福岡県)には教会や学校を建てている。長年の激しい労苦のすえ天草に没した。
[磯見辰典 2018年2月16日]
『中西啓著『長崎のオランダ医たち』(岩波新書)』
アルメイダ(Don Francisco de Almeida)
あるめいだ
Don Francisco de Almeida
(1450―1510)
ポルトガルの初代インド副王。リスボンの貴族の家に生まれ、若いときから歴代の王に仕え、1505年、初代のインド副王に任命されてインドに向かった。途中アフリカ東海岸、インド西海岸の各地を攻撃し、コーチン(現、コーチ)その他に要塞(ようさい)を建設して、ポルトガル海上帝国の基礎を築いた。1508年、エジプトのマムルーク朝の艦隊の攻撃を受けて、息子のドン・ロウレンソを失ったが、翌1509年、カンベイ湾口西岸のディウを攻撃し、マムルーク朝の艦隊を撃破して復讐(ふくしゅう)を遂げた。彼はイスラム教徒と対立しない形で香料貿易を行い、これによって王室の利益を図ろうとした。しかし、後任の総督アフォンソ・デ・アルブケルケと意見が対立し、商船で帰国の途中、南アフリカ海岸で住民に殺された。
[生田 滋]