アルメイダ(読み)あるめいだ(英語表記)Luis de Almeida

デジタル大辞泉 「アルメイダ」の意味・読み・例文・類語

アルメイダ(Luis de Almeida)

[1525~1583]ポルトガル宣教師。天文21年(1552)来日。弘治元年(1555)イエズス会に入会。私財を投じて豊後ぶんごの府内に孤児院や病院を開き、また外科医を養成した。

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精選版 日本国語大辞典 「アルメイダ」の意味・読み・例文・類語

アルメイダ

  1. ( Luis de Almeida ルイス=デ━ ) 戦国時代に来日したポルトガルの宣教師。はじめ貿易を営んだが、天文二一年(一五五二)周防国山口でイエズス会に入る。外科医の心得があり豊後府内(大分県)で病院や孤児院を開く。各地に布教し、マカオで司祭となり、天草で没した。(一五二五‐八三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルメイダ」の意味・わかりやすい解説

アルメイダ(Luis de Almeida)
あるめいだ
Luis de Almeida
(1525―1583)

ポルトガルの貴族。インドから日本に渡り、当初平戸(ひらど)(長崎県)で貿易に従事していた。リスボンで得た外科医の資格を活用して日本でのキリスト教布教に尽力し、私財を投じて平戸に育児院、府内(大分県)にらい病院、普通病院を建設して治療や医員の養成にあたった。検脈、検尿、薬物投与といったヨーロッパ診断学を導入、当時五島(ごとう)(長崎県)などに行われていた漢方医学や呪禁(じゅごん)医療を圧した。1555年(弘治1)イエズス会に入会、1580年(天正8)マカオに渡り司祭に叙階された。彼の足跡はほとんど九州全土に及んでいるが、とくに横瀬浦口之津、島原、長崎、五島(以上長崎県)、志岐(しき)、本渡(ほんど)(以上熊本県)、秋月(福岡県)には教会や学校を建てている。長年の激しい労苦のすえ天草に没した。

[磯見辰典 2018年2月16日]

『中西啓著『長崎のオランダ医たち』(岩波新書)』


アルメイダ(Don Francisco de Almeida)
あるめいだ
Don Francisco de Almeida
(1450―1510)

ポルトガルの初代インド副王。リスボンの貴族の家に生まれ、若いときから歴代の王に仕え、1505年、初代のインド副王に任命されてインドに向かった。途中アフリカ東海岸、インド西海岸の各地を攻撃し、コーチン(現、コーチ)その他に要塞(ようさい)を建設して、ポルトガル海上帝国の基礎を築いた。1508年、エジプトマムルーク朝の艦隊の攻撃を受けて、息子のドン・ロウレンソを失ったが、翌1509年、カンベイ湾口西岸のディウを攻撃し、マムルーク朝の艦隊を撃破して復讐(ふくしゅう)を遂げた。彼はイスラム教徒と対立しない形で香料貿易を行い、これによって王室の利益を図ろうとした。しかし、後任の総督アフォンソ・デ・アルブケルケと意見が対立し、商船で帰国の途中、南アフリカ海岸で住民に殺された。

[生田 滋]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルメイダ」の意味・わかりやすい解説

アルメイダ
Almeida, Francisco de

[生]1450頃.リスボン
[没]1510.3.1. テーブル湾沿岸
ポルトガルの軍人,植民地行政官。インド初代総督 (在任 1505~09) 。 1505年国王マヌエル1世 (幸運王)から初代インド副王に任命され,強力な艦隊を率いてキロアに上陸,抵抗もなくこれを占領。 A.アルブケルケによって 03年設営されたコーチンに本拠をおいた。ポルトガルの主権確立のため,アンゲディバ島,カナノールに要塞をつくる反面,マラッカと通商条約を結ぶなどした。 08年息子ロレンソがショールでエジプト海軍の奇襲を受けて殺害されたので,復讐のため 09年海岸沿いにゴア,ダブールなどの港を焼払い破壊した。 08年アルブケルケが後任として到着したが,承認せず投獄した。しかし翌 09年 11月には交代を決意し,12月にはヨーロッパに向けて出航。途中,10年3月,テーブル湾で水補給のため上陸した際,コイサン人の攻撃を受け,殺された。

アルメイダ
Almeida, Guilherme de

[生]1890. サンパウロ,カンピナス
[没]1969.7.12.
ブラジルの詩人。高踏派として出発,のち中庸な近代主義詩人となる。幻想の世界を描き,感動を呼起すのに巧みな詩を作り,『時の踊り』A Dança das Horas (1919) ,『嘆きの修道女の時の書』 Livro de Horas de Soror Dolorosa (20) ,『私のもの』 Meu (25) ,『人種』 Raça (25) ,『さまざまな詩』 Poesia Vária (47) のほか,6巻の『アルメイダ全詩集』 Toda a Poesia de Guilherme de Almeida (52) を出版。

アルメイダ
Almeida, José Valentim Fialho de

[生]1857.5.7. アレンテージョ,ビラデフラデス
[没]1911.4.4. アレンテージョ,ビラデフラデス
ポルトガルの作家。苦学してリスボン医学校を卒業。風景画家的な観察眼で,人間の外的生活模様を描いた。主著『短編集』 Contos (1881) ,『悪徳の町』A Cidade do Vício (82) ,『ぶどうの国』O País das Uvas (93) ,社会評論集『猫』 Os Gatos (89~93) 。

アルメイダ
Almeida, Luis de

[生]1525. リスボン
[没]天正11(1583).10. 天草
安土桃山時代に来日したポルトガルの貴族。イエズス会士。リスボンで医学を学び,インドを経て日本に渡り,貿易と布教に従った。私財を投じて平戸 (長崎県) ,府内 (大分県) に治療施設,九州各地に教会や学校を設けた。

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改訂新版 世界大百科事典 「アルメイダ」の意味・わかりやすい解説

アルメイダ
Dom Francisco de Almeida
生没年:1450-1510

ポルトガルの初代インド総督。貴族の出身で,歴代の国王に仕えたのち,1505年初代インド総督としてインドに赴き,コーチンその他に要塞を建設してポルトガル海上帝国の基礎を築いた。08年にエジプトのマムルーク朝とインドのグジャラート王国との連合艦隊の攻撃をうけ,息子のドン・ロウレンソを失ったが,翌年グジャラートのディウを奇襲して同艦隊を破った。第2代総督のアルブケルケとは交代をめぐって激しく対立した。帰国の途中南アフリカ海岸でコイ・コインに殺された。
執筆者:


アルメイダ
Luís de Almeida
生没年:1525ころ-83

ポルトガル人のイエズス会士。リスボン出身。1546年外科医の免許を得た。東アジアで貿易商人として活動後,1555年(弘治1)来日した。翌56年イエズス会に入会し,私財約5000クルザドを寄付し,その一部で豊後府内(現,大分)に孤児院,病院を建て医療活動を行い,西洋医学を伝えた。横瀬浦,薩摩,有馬,五島,天草など主として九州地方で布教し,各教会の基を作った。80年マカオでパードレ(司祭)に叙階され,83年天草河内浦で没した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルメイダ」の解説

アルメイダ
Francisco de Almeida

1450?~1510

ポルトガルの軍人。初代インド副王(総督)に任じられ,1505年から09年にかけて,コーチンを基盤に,インド洋におけるイスラーム勢力の排除,在地の権力者との同盟関係の構築をめざす。09年,マムルーク朝艦隊をディウ沖海戦で壊滅させ,ポルトガルの海上覇権を打ち立てるも,直後に更迭され,帰路喜望峰を越えたところで先住民の攻撃を受け死亡した。

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百科事典マイペディア 「アルメイダ」の意味・わかりやすい解説

アルメイダ

ポルトガル貴族出身のイエズス会宣教師。貿易のため数度来日。外科医の素養があり,再来日の1556年イエズス会に入会。このとき寄付した私財の一部で1557年豊後(ぶんご)府内(大分)に日本で初めて洋式病院,孤児院を設け,西洋医学いわゆる南蛮外科を伝えた。主として九州を伝道し,天草で没した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「アルメイダ」の解説

アルメイダ Almeida, Luis de

1525-1583 ポルトガルの宣教師,医師。
貿易商として天文(てんぶん)21年平戸にくる。イエズス会に入会,ザビエルの後継者トルレスについて布教に従事。豊後(ぶんご)(大分県)の大友宗麟(そうりん)の保護のもと,育児院,病院などを建設,みずからも診療にあたった。天正(てんしょう)11年10月天草で死去。58歳。リスボン出身。

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旺文社世界史事典 三訂版 「アルメイダ」の解説

アルメイダ
Francisco de Almeida

1450ごろ〜1510
ポルトガルの軍人・初代インド総督
コチンを本拠としてカリカット・セイロンを攻撃。1509年エジプトのマムルーク朝艦隊をディウ沖で撃滅するなど,ポルトガルのアジア支配に貢献した。

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世界大百科事典(旧版)内のアルメイダの言及

【大航海時代】より

… マヌエル王の方針は,一つはイスラム商人と対立しないような形でインドで貿易活動を行うことであり,もう一つはできる限り早くチョウジなどの産地であるモルッカ諸島に到達し,スペインに対して優先権を主張することであった。マヌエル王はまたインドにおけるポルトガル人の征服,貿易活動を統轄するために〈インド領〉を設置し,その初代副王としてフランシスコ・デ・アルメイダをインドに派遣した。アルメイダはマヌエル王の方針を忠実に実行したが,彼の後を継いだアフォンソ・デ・アルブケルケはむしろイスラム商人によるインド洋の国際貿易支配を打破しようとして,1510年にはゴアを占領し,さらにアデン,ホルムズを攻撃し,ホルムズを朝貢国とするとともに,11年にはマレー半島のマラッカ王国を占領し,翌年船隊をモルッカ諸島に派遣した。…

【ポルトガル】より

…このエボラは宗教的中心地で,16世紀に日本からの少年使節(天正遣欧使節)も,大司教に会うためここを訪れている。一方,この時代には世俗的な器楽や歌曲も盛んで,続く18世紀にはセイシャスCarlos de Seixas(1704‐42),アルメイダFrancisco António de Almeida(?‐1755),ソウザ・カルバリョJoão de Sousa Carvalho(1745‐98)らが,鍵盤音楽,管弦楽,歌劇に成果を示し首都リスボンで活躍した。19世紀になるとイタリア・オペラの影響が著しく,民族的な特色は後退したが,世紀の後半から20世紀にかけてケイルAlfredo Keil(1850‐1907),ビアンナ・ダ・モッタJosé Vianna da Motta(1868‐1948)らが国民楽派としての活動をみせた。…

【医学】より

…さらに,ヨーロッパにおいて普及しはじめていた病院を設けて,救貧・救療事業をおこなった。とくに有名なのはリスボン出身の商人L.deアルメイダで,通商旅行の必要性から多少の医術を知っていたが,日本でイエズス会に入信,豊後の大友宗麟の後援のもとに府内(現,大分市)に育児院と病院をつくった。この病院は2棟からなり,1棟は癩患者用に,1棟は一般の傷病者用とした。…

【医者】より

…しかも,学舎啓迪院を基盤に医学教育を行い,豊臣政権下で施薬院を復活した全宗や江戸幕府の奥医師制度を企画した曲直瀬玄朔ら後継者を育成した。 戦国・織豊期に実地医療を行った医者として,日本にはじめて《傷寒論》を伝えた坂浄運や,庶民の治療に実をあげた永田徳本,さらにイエズス会の医師L.deアルメイダらも無視できない。ことにアルメイダは日本にはじめて南蛮医学を伝え,外科療法に新風を吹き込んだ。…

【ポルトガル文学】より

…そのなかで最も重要なものは詩人コレア・ガルサンを理論的指導者とするアルカディア・ルジターナ(1756創設)で,このアカデミーによって新古典主義的作品が多く現れた。 新古典主義的雰囲気の支配するなかで,次のロマン主義文学の先駆者として重要な役割を果たしたのが,ウィーン,ロンドンで新しい思想に接した女流詩人レオノール・デ・アルメイダLeonor de Almeida(1750‐1839)である。ポルトガルのスタール夫人とも呼ばれるこのアロルナ侯爵夫人のサロンに集まった詩人のなかで,前ロマン主義を代表する詩人がゴンザーガTomás António Gonzaga(1744‐1810),ボカージェManuel Maria Barbosa du Bocage(1765‐1805)である。…

※「アルメイダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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