ポルトガル人のイエズス会士。リスボンに生まれ,1548年イエズス会入会。同年10月ゴアに到着し,聖パウロ学院に入学。修練期間中,来日前のザビエルや日本人アンジローらに会った。50年末からイルマンとして,インド,マラッカで布教に従事した。61年ゴアで司祭に叙階され,63年(永禄6)7月に来日した。12月度(たく)島(平戸市)に渡り,ザビエルの同行者であったフェルナンデスから日本語および風習,習慣などを学んだ。在日イエズス会はザビエル以来日本の政治・文化の中心地として都(京都)地方を重視していたが,フロイスは64年末にここに派遣され,76年(天正4)まで12年余り滞在した。1566年から都の地区長を務め,69年3月,前年入京した織田信長と会い,知遇を得たことはキリシタン教会発展の基となった。同年夏,岐阜に信長を訪ね,72年には通訳として布教長カブラルに同行し信長を訪問した。76年オルガンティーノに地区長の職を譲り,77-81年まで大友宗麟支配下の豊後地方の地区長を務めた。1580年日本巡察使バリニャーノが来日して上京するさい通訳として同行し,信長から歓待された。バリニャーノは日本視察後年報制度(一定の書式で定期的にする布教報告)を設けたが,フロイスは準管区長の下で《イエズス会日本年報》の執筆者になった。83年秋,長年の日本研究と文才が評価されて《日本史》の編纂を命じられた。87年準管区長クエリョに同行し豊臣秀吉と大坂城中で会見した。同年伴天連追放令後各地を移転し,90年長崎に居を定め,92年(文禄1)2月および7月に開催された準管区総会議では書記を務めた。同年10月バリニャーノとともにマカオへ行き,3年余り秘書を務め,95年長崎へ戻った。97年二十六聖人の殉教を目撃して報告書を書き,同年7月長崎で没した。滞日三十数年,信長,秀吉らの激動の時代を生き,彼らとも接触して中央政界の事情にも社会,文化にも詳しい日本通の宣教師であった。著書《日欧文化比較》(1585。《大航海時代叢書》所収),《日本二十六聖人殉教記》(1597)のほか年報,書簡多数がある。
執筆者:岸野 久
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
織豊時代に日本で活躍したイエズス会司祭。その日本通信と著書『日本史』で知られる。リスボンに生まれ、16歳ごろイエズス会員となってインドに向かい、ゴアでザビエルや鹿児島出身のアンジロウらに会った。早くから文筆の才能が認められ、ゴア滞在中にも管区長付として書記を務め、東洋各地からの情報に通じた。1563年(永禄6)に来日、まもなく五畿内(きない)に派遣され、中日本布教長に就任した。織田信長の寵(ちょう)を受け、岐阜、安土(あづち)(滋賀県蒲生(がもう)郡)、京都などで彼と親しみ、その地からの興味深い報告書は、ヨーロッパに送られて広く読まれた。1577年(天正5)からは九州に移ったが、1583年にはローマのイエズス会総長から、「日本の布教史」を執筆するよう訓令を受け、それ以後は、日本副管区長付として、日本年報の主たる執筆者を務めたり、会議において書記の仕事をしつつ、『日本史』と題し、フランシスコ・ザビエル以後の布教史の執筆に専念した。1592年(文禄1)から3年近くマカオに赴いたが、長崎に戻って執筆を続け、1597年(慶長2)7月8日、膨大な『日本史』の原稿の行く末を案じながら、65歳で病死した。フロイスの書簡や年報はほとんど大部分が早くヨーロッパで刊行され、各国語版が出された一方、『日本史』のほうは、久しく原稿がマカオの修道会の倉庫に埋もれたままになり、写本も世界各地を転々としたので、1977~1980年に日本で初めて日本語で活字化されるに至った。
[松田毅一 2018年2月16日]
『松田毅一・川崎桃太訳注『フロイス・日本史』全12巻(1977~1980・中央公論社/中公文庫)』
(五野井隆史)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1532~97.5.24
ポルトガル人イエズス会宣教師。ポルトガルのリスボンに生まれ,1548年同地でイエズス会に入会。同年ゴアでザビエルと日本人ヤジロウに出会う。63年(永禄6)来日,肥前国横瀬浦に上陸し,度島(たくしま),平戸・口之津をへて上京。65年正親町(おおぎまち)天皇の綸旨(りんじ)により京都から追放。68年織田信長が入京すると,翌年上京。信長と対面し,以後親交を重ねた。同年,朝山日乗を宗論で論破。その後,豊後国に転じ,81年(天正9)巡察師バリニャーノの通訳として上京,信長から歓迎をうけた。86年準管区長コエリョの通訳として大坂に赴き,豊臣秀吉に謁見。翌年バテレン追放令により平戸に赴き,西九州にとどまる。長崎で没。語学・文筆の才能に優れ,多くの通信文を残し,「日本史」「日欧風習対照覚書」「日本二十六聖人殉教記」を著した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…66年インド布教を命じられ,翌年ゴアに至る。70年(元亀1)6月布教長カブラルとともに天草の志岐に到着,ルイス・フロイス補佐のため畿内に派遣される。フロイスが九州に去った後は都地方の布教責任者を務め,被昇天の聖母教会(南蛮寺)を建て,76年(天正4)8月15日最初のミサをささげた。…
…イエズス会士フロイスが記した1549年から94年までの編年体の日本布教史。自筆の原稿は発見されていないが,一部分を除き,18世紀の写本が存在する。…
…1544年に初来日し,のちにフランシスコ・ザビエルと親交を結んでイエズス会に入会するポルトガル人メンデス・ピントの《東洋遍歴記》は1614年リスボンで公刊されて以来何度も版を重ね,英訳(1625)もある。同じポルトガルの修道士ルイス・フロイスは1563年来日,日本語を習得して滞在したが,彼の手紙はすでに75年にスペイン語訳が出ている。プロテスタントのドイツ,ネーデルラントですら訳が出ていることは,彼の見聞が西欧各地に広まっていた証拠となろう。…
…《耶蘇会士日本通信》が彼を都の総督とするのは誇張である。彼自身は禅宗を信じたが,キリシタンを保護し,69年には高山ダリヨ(右近の父)の紹介で京都から堺へ追放されていたL.フロイスを知り,信長に上申してフロイスの帰京を周旋した。イエズス会では彼をキリシタンの保護者であり父であったと称賛している。…
※「フロイス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加