巣鴨村(読み)すがもむら

日本歴史地名大系 「巣鴨村」の解説

巣鴨村
すがもむら

[現在地名]豊島区巣鴨一―五丁目・西巣鴨にしすがも一―四丁目・上池袋かみいけぶくろ一―四丁目・北大塚きたおおつか一―三丁目・南大塚みなみおおつか一―三丁目・東池袋ひがしいけぶくろ二―五丁目・西池袋にしいけぶくろ二丁目・目白めじろ二―三丁目など

上駒込かみこまごめ村、下駒込村(現文京区)の西に位置し、南西は雑司ヶ谷ぞうしがや村、北は滝野川たきのがわ(現北区)など。北部を中山道、南部を小石川方面から中山道板橋宿に通じる道(板橋道、現春日通)が、いずれも南東北西方に走り、両道の間を谷端やばた川が南東方に流れる。古くは菅面・須賀茂などとも書いた。北条氏所領役帳によると、江戸衆の恒岡弾正忠が江戸「菅面之内中丸」で一貫五〇〇文を知行している。この中丸は現板橋区中丸なかまる町辺りに比定される。また同じく江戸衆の太田新六郎康資の知行地に「江戸 大根原」二貫五〇〇文がある。明治時代前期まで巣鴨村の小字に大根原だいこんぱらがあったが(「風土記稿」・駅逓寮編地名字引など)、現在のどこにあたるかは不明。慶長一七年(一六一二)五月三日、徳川家康は「巣鴨村百三拾壱石」などを芝増上寺に寄進している(「徳川家康判物写」増上寺文書)。以後同寺領で幕末に至った(「風土記稿」は天正一九年に増上寺領となったとする)。田園簿では田高七六石余・畑高五三石余、旧高旧領取調帳では高一二八石余。大伝馬おおでんま町・南伝馬みなみでんま(現中央区)へ駄賃助馬を出していたが(万治三年「三伝馬町助馬証文」御伝馬方旧記)、天和二年(一六八二)の助馬勤馬高並馬持名前書上(同旧記)には上巣鴨村・下巣鴨村とみえ、一時期上・下の二村となっていた可能性もある。

明暦大火後、下駒込村(現文京区)から当村にかけて加賀金沢藩前田家の中屋敷(駒込屋敷、のち抱屋敷に転換)に割与えられている(豊島区史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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