江戸後期の文人。狂歌,狂詩,狂文,洒落本,黄表紙,滑稽本の作者。随筆家。本名覃,通称直次郎,七左衛門。号は蜀山人,寝惚(ねぼけ)先生,四方赤良(よものあから),巴人亭,杏花園,山手馬鹿人,風鈴山人その他。江戸牛込生れの幕臣。江戸市民文芸の水先案内人の役割を果たした最初は,戯れに作った狂詩が平賀源内の推賞するところとなって出版された《寝惚先生文集》(1767)である。19歳の知的武士の軽快な諧謔が歓迎されて一躍文名をあげた。その2年後,同門の友唐衣橘洲(からごろもきつしゆう)に誘われて狂歌を始め,四方赤良と号したが,これが機知と笑いを求める風潮に合ってしだいに普及した。また1775年(安永4)に《甲駅新話》を書いてからは洒落本作者として活躍し,《変通軽井茶話(へんつうかるいざわ)》ほか数編の佳作をのこすという幅ひろい文学活動によって,安永末年(1780)には文芸界の中心的な存在になっていた。そして81年(天明1)《菊寿草》,翌年《岡目八目》で新興の黄表紙の作品批評を試み,さらに《此奴和日本(こいつはにつぽん)》など実作も数種を数えるが,この面では成功を収めなかった。一方狂歌は,83年赤良編《万載狂歌集》と橘洲編《狂歌若葉集》が競争的に出版されたのが刺激となって熱狂的な流行が始まった。そして機知と滑稽を特色とする赤良が,温和で地味な橘洲を圧倒して,狂歌においても赤良の四方連が主流となり,あたかも江戸文芸全般の盟主のごとき観を呈した。しかし田沼政権が崩壊して87年松平定信の文武奨励政治が始まり,南畝は文芸界と絶縁した。〈世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといふて夜もねられず〉など時世風刺の落首の作者と疑われたのを恥じて,文筆を完全に捨て,7年後には人材登用試験に首席で合格し,幕吏として出発することになった。幕府発行の《孝義録》編纂,勘定所文書の整理などに当たった後,1801年(享和1)大坂銅座に出役すると,かつての名声を知る人たちから狂歌を望まれることが多く,やむなく蜀山(銅の異名)の仮号で狂歌を詠んだが,寛政改革の緊張も緩和されたので,以後狂歌を再開した。ただし次代の鹿津部真顔,宿屋飯盛らの狂歌界と関係なく,また門人もないが,世人の人気は蜀山人の狂歌に集まり,おのずから作も多くなり,文化末年(1817)ころから《千紅万紫》《万紫千紅》《四方の留粕》などの狂歌狂文集,自筆の《蜀山百首》として出版された。
晩年はむしろ江戸の代表的な知識人として高く評価され,江戸の文人墨客の番付には判定の立行司に据えられたし,青年時からの詩は《杏園詩集》として出版された。また好奇心旺盛に筆まめに書きとめた《一話一言》《俗耳鼓吹》などは生前すでに愛読者があって筆写され,《仮名世説》《南畝莠言》などは門人文宝亭編で出版されている。風俗,考証,見聞録など多岐にわたって江戸随筆の型を作り,山東京伝,曲亭馬琴,柳亭種彦をはじめ多くの追随者を出した。江戸に生まれ育ち,学殖を積み多方面の業績をのこし,古希を過ぎるまで勘定所役人として勤務した南畝は,文芸界のみならず歌舞伎,浮世絵そのほか江戸文化全体に大きな影響をのこし,またその調和的性格は諸侯から町人に至る各階層から,代表的江戸人として親しまれた。周知の狂歌2首をひく。〈生酔の礼者を見れば大道を横すぢかひに春は来にけり〉〈ほととぎすなきつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔〉(《蜀山百首》)。
→天明狂歌
執筆者:浜田 義一郎
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(ロバート・キャンベル)
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1749.3.3~1823.4.6
江戸中期の戯作者。名は覃(たん)。通称直次郎。別号は蜀山人(しょくさんじん)・四方赤良(よものあから)など。江戸生れ。家は御徒を勤める幕臣。平賀源内との出会いを契機に,19歳で狂詩集「寝惚(ねぼけ)先生文集」を出版。以後,狂歌・洒落本(「甲駅新話(こうえきしんわ)」など)・黄表紙と活動の範囲を広げた。また「菊寿草」「岡目八目」は黄表紙の評判記として影響力をもった。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)編「狂歌若葉集」に対抗して,「万載狂歌集」を発表。軽妙な笑いと機知は広く歓迎され,天明期を制するが,寛政の改革に抵触し筆を断つ。以後,役人の仕事に専心して大坂や長崎に出役するが,文名は衰えず,最晩年まで著作が出版された。
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…浮世絵研究の基礎的な文献として価値が高い。1790年(寛政2)ころ大田南畝が原撰し,1800年笹屋邦教が〈始系〉を付記,さらに02年(享和2)山東京伝が〈追考〉を加え,文政年間(1818‐30)式亭三馬が増補した。以上をもとに,33年(天保4)渓斎英泉が《無名翁随筆》(別名《続浮世絵類考》),44年(弘化1)斎藤月岑が《増補浮世絵類考》,68年(明治1)竜田舎秋錦が《新増補浮世絵類考》を,それぞれ書きついでいる。…
…しかし,それらはほとんど形式面では正規の漢詩の枠内にあるものであり,またその場限りの遊びとして作られ,出版して世に問うというほどの意欲のこめられたものではなかった。1767年(明和4)江戸の大田南畝が《寝惚(ねぼけ)先生文集》を刊行して,狂詩ははじめて手すさびの域を脱し,文学として確立された。この書は素材においても表現技法においてもそれまでの微温的な滑稽詩をはるかに超える徹底した滑稽味を発揮しており,のびやかな明るさをかもし出してすぐれた滑稽文学となっている。…
…1冊。風鈴山人(ふうれいさんじん)(大田南畝)作。勝川春章画。…
…この書はその後幕命により馬場佐十郎,大槻玄沢らの蘭学者が日本語訳を行い,《厚生新編》と名づけられたが,その第28巻〈雑集〉の〈コッヒイ〉の項は1万語にも及ぶ。コーヒーそのものの伝来時期は不明であるが,長崎に来往したオランダ人が持ち込んでいたことは確かで,1804‐05年(文化1‐2)長崎勤務をしていた大田南畝は,オランダ船を訪れた際コーヒーをすすめられ,〈紅毛船にて`カウヒイ’といふものを勧む。豆を黒く炒(い)りて粉にし,白糖を和したるものなり。…
…大田南畝編の江戸幕府勘定所記録の抄録集。南畝は1800年(寛政12)竹橋門内勘定所倉庫の諸帳面取調べの幕命をうけて整理に着手し,作業の暇に文書記録を抄出,同年中《竹橋蠹簡(とかん)》《竹橋余筆》,記録全文筆写の《竹橋余筆別集》が成った。…
…洒落(しやれ)本。山手馬鹿人(やまのてのばかひと)(大田南畝(なんぽ))作。勝川春章画。…
…1818年(文政1)開曲。作詞大田南畝。作曲川口お直。…
※「大田南畝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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