朝日日本歴史人物事典 「巨勢徳太」の解説
巨勢徳太
生年:生年不詳
7世紀の官人。名族巨勢氏の出身で,極官は改新後の難波新政府の左大臣。名を徳陀,徳太古とも書く。皇極1(642)年,舒明天皇の葬儀に際して,大派皇子(皇族中の代表的存在)に代わって誄したとあるのが初見。翌年蘇我入鹿の命により,斑鳩宮の山背大兄王を襲い,一族を自害させた。一方また,同4年の乙巳の変クーデタ事件(大化改新)では中大兄側の武将として功をたてている。新政府にあって,高麗,新羅の貢調使に天皇の詔を伝える役割を果たすなど,国の外向きの顔として重きをなし,大化5(649)年には阿倍内麻呂についで新政府2人目の左大臣となり,以後10年同職を務めた。『公卿補任』によれば,没年齢は66歳とあるが,一方大化5年左大臣就任時の年齢を50歳とし,合わない。<参考文献>門脇禎二『「大化改新」史論』
(狩野久)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報