巨勢徳太(読み)こせのとこだ

朝日日本歴史人物事典 「巨勢徳太」の解説

巨勢徳太

没年斉明4.1.13(658.2.20)
生年:生年不詳
7世紀の官人。名族巨勢氏の出身で,極官は改新後の難波新政府の左大臣。名を徳陀,徳太古とも書く。皇極1(642)年,舒明天皇葬儀に際して,大派皇子(皇族中の代表的存在)に代わって誄したとあるのが初見。翌年蘇我入鹿の命により,斑鳩宮の山背大兄王を襲い,一族を自害させた。一方また,同4年の乙巳の変クーデタ事件(大化改新)では中大兄側の武将として功をたてている。新政府にあって,高麗,新羅貢調使に天皇の詔を伝える役割を果たすなど,国の外向きの顔として重きをなし,大化5(649)年には阿倍内麻呂についで新政府2人目の左大臣となり,以後10年同職を務めた。『公卿補任』によれば,没年齢は66歳とあるが,一方大化5年左大臣就任時の年齢を50歳とし,合わない。<参考文献>門脇禎二『「大化改新」史論

(狩野久)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「巨勢徳太」の解説

巨勢徳太 こせの-とこだ

593-658 飛鳥(あすか)時代の官吏
推古天皇元年生まれ。皇極天皇2年(643)蘇我入鹿(そがの-いるか)の命で山背大兄(やましろのおおえの)王を襲撃。4年入鹿が中大兄皇子に殺害されたとき,蘇我蝦夷(えみし)をおしたてて抗戦しようとした蘇我側の軍勢を説得し,しりぞかせた。大化(たいか)5年(649)左大臣。斉明(さいめい)天皇4年1月13日死去。66歳。名は徳陀古とも。

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