「飛鳥時代」は元来、日本美術史上の時代区分であるが、これを政治史上の時代区分として用いることも多い。一般には推古(すいこ)朝(593~628)前後から大化改新(645)までとするのが普通であるが、これをさらに天智(てんじ)朝(662~671)ごろまで下げて考える説も美術史家の間には行われており、さらに時代を下げて平城遷都(710)までを飛鳥時代とみる説もある。ここでは、上記のうちもっとも広義の飛鳥時代を取り上げることとする。この時期の皇居の所在地をみると、推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)、小墾田宮(おはりだのみや)、舒明天皇(じょめいてんのう)の岡本宮(おかもとのみや)、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の板蓋宮(いたぶきのみや)、斉明天皇(さいめいてんのう)の川原宮(かわらのみや)、天武天皇(てんむてんのう)の浄御原宮(きよみはらのみや)などはいずれも飛鳥の地にあり、天武のあとの持統、文武(もんむ)2天皇の藤原京も飛鳥の域内ないしその北方に隣接して存在し、この間、皇居が飛鳥以外に移ったのは、わずかに孝徳(こうとく)朝の10年足らず(難波(なにわ))と天智朝の5年余り(大津)の計15年ほどで、この時代の政治、文化の中心はおおむね飛鳥にあったので、この時期を飛鳥時代とよぶ。
広義の飛鳥時代は、したがって仏教伝来(538)以降、平城遷都以前と言い換えることもできるが、まさに仏教伝来に伴う新文化の成立発展こそが、この時代を前代の古墳時代と区別する指標である。古墳は8世紀初頭まで営造されるが、飛鳥時代は古墳時代の後期および終末期に相当するという意味で、古墳文化の終焉(しゅうえん)を促した時代だともいえる。
また大化改新以後は政治、経済、社会の各方面に大きな変革が試みられ、それに伴って時代の様相も大きく変化したので、この時代を大化改新を境に前後の2期に分けて考えるのが便利であろう。
総じて広義の飛鳥時代は、大和国家(やまとこっか)が豪族の連合政権的性格を脱して統一的中央集権国家、天皇制律令(りつりょう)国家へと飛躍するための模索と、試行錯誤と、そして努力の、積み重ねの時代ということになるであろう。
[黛 弘道]
およそ4、5世紀のころいちおう成立した日本の古代国家は、すでに朝鮮半島に勢力を伸ばし、任那(みまな)諸国を支配し、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)などの諸国に威圧を加えていたが、やがて新羅が興隆し、日本の出先官憲の失政が重なり、任那諸国の離反が相次ぐなどのことがあり、日本の対朝鮮政策は大きな困難に直面した。その結果、562年には任那が最終的に新羅の勢力下に入り、日本は朝鮮半島における重要な足掛りを失うことになった。『古事記』や『日本書紀』によって5世紀から6世紀にかけての国内政情を眺めると、大和(やまと)の王権をめぐる皇族間の相克が激化し、またそれに絡んで豪族間でも利益の対立が深刻となり、血なまぐさい殺戮(さつりく)が繰り返され、その結果、仁徳(にんとく)系の皇統が断絶し、そのあとに、前王朝とはまったく血縁関係がないか、あったとしてもきわめて疎遠な継体天皇(けいたいてんのう)が、6世紀の初めに擁立されることとなった。また、この間に葛城(かずらき)、平群(へぐり)という二つの大臣(おおおみ)家が滅亡し、継体擁立に功のあった大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)が全盛期を迎えた。しかし、それも長続きせず、欽明(きんめい)朝にはこれを蹴(け)落とすような形で大連の物部(もののべ)氏が台頭し、一方で蘇我(そが)氏が大臣となり皇室との婚姻関係を背景に勢力を振るうに至った。このような有力氏族の盛衰は大和政権の外交政策を混乱させ、朝鮮半島の出先官憲の失態と相まって、日本の威信の急激な低下を招くこととなった。
もともと当時の日本の政治体制は、大王(おおきみ)(天皇)の主宰する大和政権が全国各地の王たちを国造(くにのみやつこ)と名づけて統率し、あまり強固とはいえない連合体を形づくっていたのであり、統一された中央集権国家からはほど遠い体制にあった。これに対して新羅は、すでに6世紀初頭の法興王(ほうこうおう)の時代に早くも中国の律令制(りつりょうせい)を導入して中央集権的統一国家建設に力強く歩み出していた。5~6世紀における国の内外の諸情勢からみれば、日本の朝鮮半島からの敗退は当然の帰結であった。この現実に直面した日本の支配層は、国制の転換を真剣に追求するに至った。
6世紀の大和政権は、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)の乱鎮定を契機に、以後、国造領を割くなどして直轄領としての屯倉(みやけ)を全国各地に設置することにより、軍事、経済、交通上の要衝を押さえ、また国造の一族子弟を召して大王の親衛軍を編成し、ときに中央から役人を派遣して税の徴収にあたらせるなど、在地支配者たる国造の権威を削り、その被官化、官僚化を図っている。また大和政権内部においては、職業分業組織としての伴造(とものみやつこ)・品部(しなべ)制が地域的に拡大されるとともに、制度そのものの拡充による官司制の発達が顕著な事象として認識される。これらは、いずれも大和政権による中央集権化の動向を示すものであるが、このような国制転換の動機の一つが、先に述べた国の内外諸情勢にあることはすでに明らかである。なお、6世紀における群集墳の発達が在地における中層以上の農民の成長を反映するものとすれば、従来の族長層と農民との関係に変化がおこったと推測するほかはなく、その変化は従来の支配体制の維持を困難とするわけで、大和政権でいえば、国造層は大和政権への被官化を強め、その権力を背景に在地の情勢の変化に対応するという方策をとらなければならなかった。
6世紀――それは天皇でいえば、継体(けいたい)、安閑(あんかん)、宣化(せんか)、欽明(きんめい)、敏達(びだつ)、用明(ようめい)、崇峻(すしゅん)の7代と推古(すいこ)朝の初頭を含む――という時代は、大和政権が国制を転換して政権を強化し、行政機構を充実して中央集権的、官僚制的な方向に歩み始めた時代ということができる。
[黛 弘道]
これを受けた推古朝の政治は、同一路線のうえをさらに前進する。まず内政面では、第一に冠位十二階の制定(603年=推古天皇11)をあげることができる。これは徳、仁、礼、信、義、智という儒教の徳目をおのおの大小に分けて十二階とし、階ごとに冠の材料や色を別にし、冠によってその人の等級を明らかにしようとするもので、日本の位階制の起源としても画期的な意味をもつ。従来、朝廷が豪族に与えた姓(かばね)は、氏々の間の序列を定め、氏姓社会の秩序を維持するためのものであったが、冠位は官人としての個人に与えられ、一代限りであり、しかも功績、才能によって昇進が可能であった。すなわち、冠位は官人の秩序を整えるもので、官司制的な方向を推し進めてきた結果、広範に官人群が出現した状況に即応するくふう、施策にほかならなかった。冠位の授受は君臣関係の確認、豪族の官僚化を意味するから、これに抵抗するものもあり(たとえば蘇我氏)、冠位制の施行は一挙に実現したのではない。その全国的施行は大化以後であり、そこに推古朝政治の一つの限界があった。
第二は十七条憲法である。これについても問題は多い。たとえば憲法の真偽について江戸時代以来議論があるが、ここでは聖徳太子の真撰(しんせん)説に従いたい。憲法全体を通じて注意されるのは、そこに示された政治思想のいくつかである。まず、国家の構成要素として君、臣、民の三つをあげ、とくにこのなかの臣すなわち官僚に対して守るべき規律、従うべき道徳を示しているのであるが、ここには太子の描いた国家像と、彼が求めた君臣関係の理想像が示されている。そこに国造を含めた豪族の臣僚化に対応する国家の理想像を認めることができるであろう。憲法を構成する政治思想の第一は儒教であるが、そこでは民は初めから支配される対象にすぎず、したがって徳による人民支配は臣のよるべき道徳にほかならなかった。しかし、憲法にはまた法家の思想も顕著に認められる。儒家が礼による調和を重んずるのに対して、法家は君主権の絶対優先をたてまえとし、ときに儒教的秩序への干渉をも辞さない。太子が法家思想を重視していることもその国家観を知る手掛りとなろう。
第三に推古朝前後の国制としての国県(くにあがた)制について触れてみたい。『隋書(ずいしょ)』によると日本には軍尼(くに)が120あり、10の伊尼翼(いなき)(冀の誤り)が1の軍尼に属するという。軍尼は国で、すなわち国造のこと、伊尼翼は稲置で県稲置(あがたのいなぎ)のことと考えられるから、当時の日本ではいわば国県制ともよぶべき地方行政制度が行われていたと推測する説がある。一方、『隋書』の記事は史実とかけ離れたものと考える説もあるが、少なくとも畿内(きない)周辺や東国の一部などにはこれが施行された可能性はある。国県制が大和政権の直轄領的地域に行われたとすると、そこでは中央集権的な行政の貫徹が想像できる。これは、6世紀にすでにみられた方向をいっそう強力に推進した政策とみることができるが、このような制度の手本も、またすでに朝鮮三国にあったのである。このように推古朝は、一君万民思想、王民思想が強調され、その具体化の方策が示されたばかりでなく、限界はあるが、それが実施された時代としてとらえられる。
次に推古朝の外交について考えてみよう。581年北周の譲りを得て建国した隋は、589年に中国を統一するが、618年には滅亡し、かわって唐王朝が建設される。隋、唐の二大帝国は周辺の諸国家、諸民族に強い影響を与えるが、日本もその例外ではなかった。さて推古朝の初期には、新羅出兵、任那回復の国是により軍事外交が展開されるのであるが、皇族を将軍とした再度の遠征がいわば内部崩壊という形で失敗に終わったこと、当の新羅が隋の冊封(さくほう)体制内に入ったことなどの理由で方針の転換を迫られ、隋との国交に重心を置く外交政策への切り換えが図られた。『隋書』にしかみえない600年(推古天皇8)の日本からの遣使、607年と608年の両度にわたる小野妹子(おののいもこ)の派遣、614年の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)の派遣、すなわち遣隋使の派遣には、前記のような東アジア外交の背景があった。新羅が隋との間に宗属(そうぞく)関係を結んだ以上、これを討つことは隋への敵対行為とみなされるからである。このことは、隋が滅び、唐の勢力がいまだ安定しなかった623年、日本がまたまた新羅出兵を企てたが、やがて唐を中心に東アジアの外交関係が安定してくると、ふたたび630年(舒明天皇2)から大陸との直接外交(遣唐使の派遣)へと方針を切り換えている事実からも裏づけられる。
ただ、中国外交における朝鮮三国と日本との相違点は、日本が対等外交の路線を主張したことであろう。600年の使者は、倭王(わおう)は阿毎多利思比孤(あめたりしひこ)であり阿輩鶏弥(おほきみ)と号すといっているし、607年の国書では「日出づる処(ところ)の天子」(『隋書』)と称し、翌年には「東の天皇」(『日本書紀』)を名のっている。日本の主権者が大君とか天子とか、さらには天皇とか名のった背景には、日本神話の成立(天皇は太陽神天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫)と、それを可能にした6世紀における国勢の著しい上昇発展、6世紀いっぱい中国との外交が中断した結果、5世紀以前の従属的関係を忘却ないし無視しえたことなど、さまざまの要因をあげることができよう。対中国外交においても6世紀という時代のもつ意味は大きかったのである。
[黛 弘道]
622年聖徳太子が亡くなると政治の主導権は蘇我氏に帰し、628年推古女帝亡きあとの皇嗣(こうし)についても、蘇我蝦夷(そがのえみし)の強力な推挙を得て舒明天皇(じょめいてんのう)が即位するなど、蘇我氏全盛時代が展開する。もとより蘇我氏は、6世紀以来の国制の改革に指導的役割を担ってきたいきさつもあり、太子亡きあとふたたび政界のリーダーとなったことに不思議はない。ただ舒明天皇擁立にあたって太子の遺児山背大兄王(やましろのおおえのおう)を抑えたことは、あとあとまで問題を残す結果となった。蘇我氏としては重なる血縁関係に連なる山背を避け、取り立てて因縁のない舒明を推したことには、それなりの理由があったのであろう。その舒明天皇が641年(舒明天皇13)に没したのちに皇后が即位し(皇極天皇(こうぎょくてんのう))、山背の期待がふたたび裏切られたことで蘇我氏と山背の仲はいっそう険悪となった。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)は山背大兄王一家を斑鳩宮(いかるがのみや)にことごとく滅ぼしてしまうが、この事件をきっかけに反蘇我勢力は急速に結集する。645年(大化1)のクーデターによって蘇我氏がいとも簡単に倒れた背景に、このような反蘇我的感情の広がりを認めないわけにはいかない。このクーデターによって、推古朝以来の国制改革に律令制の導入という契機が与えられることとなったが、その中心人物が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らであった。舒明・皇極朝は、蘇我氏領導のもとに6世紀以来の国制改革の方向が継続された時期といってよいが、645年のクーデターはこの方針に大きな修正を加えるものとなった。
[黛 弘道]
このクーデターをきっかけに開始された一連の政治改革を大化改新という。ではなぜ新たな改革が試みられなければならなかったのであろうか。国内的要因としては、6世紀以来の改革が完全に族制的秩序を克服するものではなく、とくに蘇我氏専権時代にはむしろ現状の固定化が図られ、天皇を中心とする改革の方向は停滞を余儀なくされた。国力のよりいっそうの充実を図るための現状打破工作は蘇我氏の排除と、しかるのちに隋・唐の律令制を採用導入する試みに始まらなければならなかった。中央集権化を徹底するためには、これがなによりも先に実現されねばならなかったのである。さらに外的要因としては、618年に興った唐の、その後における急激な膨張政策にも目を向けておく必要がある。唐の第2代皇帝太宗(たいそう)は、改めて高句麗(こうくり)討伐を再開する。644年自ら高句麗を討ち、翌年遼東(りょうとう)城を抜き、ついで高句麗の謝罪を拒否し、647年ふたたびこれを討伐している。大化改新事業の進行中、650年代の末から660年代の初めにかけて(斉明(さいめい)・天智(てんじ)朝)唐は新羅と結んで百済を挟撃し、日本・百済連合軍を白村江(はくすきのえ)に撃破し、663年百済を占領したばかりか、それから5年後には高句麗をも滅ぼしてしまうが、この結果東アジアの情勢は日本にとってきわめて緊迫したものとなった。日本は眼前の強大な敵、唐に対抗するために唐の国制を見習わなければならなかった。
ともかく645年のクーデター以後次々に実施された諸政策の積み重ねによって国制改革は徐々に、そして着実に進められていった。その際、なによりも注目されるのは律令制度の日本への定着の過程であろう。たとえば律令の官職体系一つを取り上げてみても、その案がつくられたのは大化改新のときであるが、それがいちおうの形を整えたのは四半世紀を経た天智朝であり、それがさらに壬申(じんしん)の乱(672)後の天武(てんむ)朝(672~685)で種々の修正を受け、701年(大宝1)の大宝(たいほう)律令で最終的な仕上げの段階に到達するのであり、その間半世紀以上の時日と努力を要しているのである。ただ幸いなことに6世紀以来の国制の転換は朝鮮三国に倣ったものであったが、その背後には中国の南北朝があり、それはまた隋・唐の国制にも密接なつながりがあったので、結果として大化の前後の国制に根本的なギャップを生ぜしめなかった。
[黛 弘道]
中大兄皇子(天智天皇)の領導のもと改革は強引に推進されたが、その没後まもなく672年大友皇子(おおとものおうじ)と皇弟大海人(おおあま)との間に壬申の戦乱が勃発(ぼっぱつ)し、後者が勝利を得て天武天皇となった。天武朝は、乱の結果大友方についた大豪族が没落ないし衰微したこともあって、天皇権力の急上昇、ひいては天皇の神格化、総じて古代天皇制の確立をもたらすこととなった。天武の没後皇后持統(じとう)が即位する(在位687~696)が、この天武・持統2代の間に、大化改新がその究極の目標とした天皇を中心とする律令制中央集権国家はその輪郭を明らかにする。ついで持統天皇は孫の文武(もんむ)(在位697~700)に位を譲ったが、なお太上天皇として政治を後見し、701年には大宝律令の完成をみることになる。この大宝律令は、律と令の2法典がそろったという形式的な点でも、また大化以来の政治努力と経験と知識とをフルに生かして編集したという内容的な面でも、まさに律令国家の完成を象徴するものであった。まもなく持統、文武は相次いで世を去り、その後を受けた文武の母元明天皇(げんめいてんのう)(在位707~715)が710年(和銅3)都を藤原京から平城京へ移すに及んで、飛鳥時代はその終わりを告げ、奈良時代が始まるのである。
[黛 弘道]
推古(すいこ)朝を中心とする文化を飛鳥文化、天武(てんむ)・持統(じとう)朝を中心とするそれを白鳳(はくほう)文化とよんで区別するのが一般である。
[黛 弘道]
6世紀の中ごろ百済(くだら)から仏教が伝えられたことはその後の日本文化に決定的ともいうべき影響を与えたが、推古朝前後についてみれば、これにより、日本で最初の仏教文化が誕生したことをあげなければならない。これは従来の古墳文化とはまったく異質な、国際性豊かな高度の文化であり、まだ十分に消化したものではないにしても、健康的で新鮮な感覚にあふれていた。それは豪族により受容され享受されたもので、人民とはほとんど無縁であったが、日本文化の飛躍的発展に資するところは大きかった。そのほか、漢字、儒教など中国の学術、文化の影響にもみるべきものがあった。すでに漢字を用いて国語を表記するいわゆる万葉仮名も考案使用されるようになり、不自由ながら日本語を漢字で表現できるに至った。仏教思想も、人心の教化統一の手段としてとくに重んじられ、仏教の護国宗教、人民支配の一手段という基本的性格もすでにこの時代に運命づけられている。
なお、620年(推古天皇28)聖徳太子らの撰(せん)になる『天皇記』『国記』以下の歴史書も注目に値する。たとえば『帝記』にかえて『天皇記』としたことは、天皇称号の始用という点で思想面のみならず外交面でも十分意味があった。『国記』も国家成立の由来を述べたものとすれば、まさに空前の書で、そこに太子における歴史意識、国家意識の成長を読みとることもできよう。
こうして、この時代にはともかくも外来文化を積極的に摂取し、さらにそれを消化しようと努力し、またその能力を示し始めている。こうして展開される飛鳥文化の特性は、(1)国際的性格が濃厚、(2)仏教芸術が基調、(3)豪族、支配層の文化、(4)古墳文化とは比較にならない高度な文化、(5)古拙であるが健全な文化、などの諸点にあるとしてよいであろう。
[黛 弘道]
大化改新以後、律令(りつりょう)国家建設のテンポが進むにつれて、前代とは異なる清新な文化が生まれてきた。これが白鳳文化といわれるものであるが、前代の飛鳥文化と比較してみると、飛鳥文化は中国六朝(りくちょう)の影響を強く受けたもので、文化の内容には稚拙さをとどめてもいるが、白鳳文化には隋・唐の、とくに初唐の影響が認められ、内容的にも成熟したものとなった。いずれも国際色豊かな文化といえるが、背景となった中国文化の相違が両者の差にも表れているのである。
白鳳文化期を政治、経済、社会的な面から特色づけるものは、律令制の成立発展であり、天皇制の確立、貴族階級による全国支配の完成であるが、ここに天皇、貴族らの強烈な国家意識を裏づけとする清新溌剌(はつらつ)たる文化が創造されることとなった。飛鳥文化と比べて、この点でも白鳳文化に顕著な特色をみることは容易であろう。
国文学の分野をみても、大化後になると斉明(さいめい)、天智(てんじ)、中皇命(なかつすめらみこと)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)、額田王(ぬかだのおおきみ)らの優れた歌人が輩出し、とくに壬申(じんしん)の乱後ともなれば、新体制の樹立に向かって大きく前進を始めた時代を反映して和歌にも数々の秀作が発表され、和歌史上、前の時期とともに一つのピークを形づくった。漢文学においても、奈良朝末に編まれた『懐風藻(かいふうそう)』の序には近江(おうみ)朝における漢文学の興隆を記し、本文冒頭には大友皇子の作詩を載せているが、壬申の乱後、大宝律令に至り、ふたたび文運の復興が図られた。大学において漢文、経学が教授されることとなり、官僚貴族の教養として漢詩文は必須(ひっす)のものとされた。ただし、漢文学を十分にこなすには、なお平安初期をまたなければならなかった。
[黛 弘道]
仏教が伝来し新しい文化が生まれたといっても、民衆の生活に直接の影響を及ぼすことはほとんどなかった。民衆は弥生(やよい)・古墳時代から引き続いて竪穴(たてあな)式住居をすみかとし、一部に平地式住居を営むものもあったが、高床(たかゆか)式住居は依然として支配階級のものであった。この状況は奈良・平安時代に至ってもあまり変わらなかったようである。
衣料も前代以来、男は衣(きぬ)、袴(はかま)、女は衣(きぬ)、裳(も)を着用したが、この基本的な組合せは室町時代に至るまで変わらなかった。当代の遺品は乏しく、古墳出土の人物埴輪(はにわ)や天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)、高松塚古墳の壁画などから推測するほかはない。玉類をはじめとするアクセサリーも庶民の間にどれほど行われたか、よくわからない。
民衆の食生活は、ある程度食器の種類も整い、ハレの日の食事などはかなり豊かな内容をもったかもしれないが、日常の食生活はけっして豊かといえるものではなかったであろう。奈良時代でも庶民や下級官人の食事は一汁一菜か、せいぜい一汁二菜で、かなり貧弱であった。
この時代は妻訪婚(つまどいこん)が盛行し、実の母子が家族の単位をなし、同居親族たるヤカラ共同体に包摂されて存在したが、しだいに父系観念が発達し、男性が女性の屋敷内に妻屋(つまや)を建てて通ったり、滞在するようになると、ヤカラ共同体は崩壊の危機をはらみながらも、かえって膨張していく。それにつれて、それを統制する族長権も大きくなり、族長の詰め所であり、ヤカラ共同体の祭祀(さいし)・集会場たる大屋(おおや)も大きなものとなる。民衆社会そのものにも族長と族人の統属関係が成長しつつあったのである。
[黛 弘道]
『井上光貞著『日本の歴史3 飛鳥の朝廷』(1974・小学館)』▽『上田正昭編『図説日本文化の歴史2 飛鳥・白鳳』(1979・小学館)』▽『児玉幸多他編『図説日本文化史大系2 飛鳥時代』改訂新版(1965・小学館)』▽『直木孝次郎著『日本の歴史2 古代国家の成立』(1965・中央公論社)』▽『井上光貞他編『日本歴史2』(1975・岩波書店)』
政権の所在地による日本史の時代区分法によって,推古天皇が豊浦宮で即位した592年から,710年(和銅3)の平城京遷都までの100余年間をいう。この間,孝徳朝に難波宮,天智朝に近江大津宮へ短期間都が移った以外,推古朝の豊浦宮・小墾田宮(おはりだのみや),舒明朝の飛鳥岡本宮・田中宮,皇極朝の飛鳥板蓋(いたぶき)宮,斉明朝の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮,天武朝の飛鳥浄御原(きよみはら)宮と宮室は集中的に飛鳥の地に営まれ,つぎの持統・文武朝の藤原京も新益京(しんやくのみやこ)と呼ばれるように,飛鳥中心の倭京(わきよう)を拡張したものであった。
645年(大化1)の蘇我氏滅亡,大化改新までを前期,以後を後期とする。ただし後期を壬申の乱以前と,天武朝以後にさらに区分し,またもし前期に6世紀中ごろの宣化・欽明朝までを含めるならば,やはり前期も推古朝以前と以後に区分するのが適当であろう。なお後期の天武・持統朝を中心とする時期を白鳳時代といい,前期の狭義の飛鳥時代と,次の天平時代に対応させる区分法が美術史などの分野で行われている。
欽明朝に任那(みまな)が滅亡し,大伴金村が失脚して,伴造(とものみやつこ)の雄族大伴氏が没落し,やはり伴造系豪族である物部氏の大連(おおむらじ)物部尾輿と,在地系豪族蘇我氏の大臣(おおおみ)蘇我稲目が相並んで政治を主導する。しかし仏教崇拝などをめぐって両者は対立し,用明天皇が没すると,物部守屋は穴穂部皇子,蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立しようとして争い,ついに馬子は守屋を攻め滅ぼして政権を掌握するが,やがて擁立した崇峻天皇をも東漢駒(やまとのあやのこま)に暗殺させる。こうした情勢に対応して敏達皇后で母が蘇我氏出身の豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)が女帝(推古天皇)として即位し,厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子・摂政となって,大臣馬子とともに蘇我氏との妥協を図りつつ国政を執る。馬子についで蝦夷(えみし),さらに入鹿が大臣となるが,入鹿は有力な皇位継承候補の山背大兄王(聖徳太子の子)を襲って自殺させ,権力の独占を企てる。こうした蘇我氏独裁の危機が強まるなかで,唐に留学した人たちが帰国して東アジアの新しい動向が伝えられると,豪族の世襲職制と私地私民制を廃し,天皇を中心とした中国の唐のような官僚制的中央集権国家を形成しようとする動きが政界の一部に強まり,その中核となったのが中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)であった。2人は綿密に計画を練り,蘇我石川麻呂らを引き入れて,645年,飛鳥板蓋宮で入鹿を斬殺し,蝦夷も自邸に放火して自殺し,蘇我氏は滅んだ(乙巳の変(いつしのへん))。かくて皇極天皇に代わって弟の孝徳天皇が即位し,中大兄皇子が皇太子,阿倍内麻呂(倉梯麻呂)が左大臣,蘇我石川麻呂が右大臣,中臣鎌足が内臣,また僧旻(みん)(新漢人旻)と高向玄理(たかむくのくろまろ)が国博士となって,旧豪族の合議制による新しい政治体制が樹立され,都も難波に移された。いわゆる大化改新である。しかし,中大兄皇子はほどなく孝徳天皇と対立し,母の皇極上皇らを伴って飛鳥に帰り,孝徳死後は重祚した斉明天皇のもとで,引きつづき皇太子のまま国政を執った。そのころ東アジアの情勢は緊迫し,新羅は唐と連合して百済を攻め滅ぼしたが,百済はなお抵抗して日本に援助を求めた。斉明天皇はこれに応ずるため兵を率いて筑紫に西下したが病死し,また救援軍は663年(天智2)の白村江(はくそんこう)の戦に敗れたため,日本は朝鮮半島から完全に撤退することとなった。中大兄皇子は対馬・壱岐・筑紫に烽(とぶひ)や防人(さきもり)を置き,水城や大野城・基肄(きい)城を築いて大宰府の防備を固めるとともに,瀬戸内海の要衝にも城を築いて唐・新羅の来攻に備えたが,また都を大和から近江大津宮に移して天智天皇として正式に即位し,近江令の制定や庚午年籍(こうごねんじやく)の作成など内政の推進にも意をそそいだ。このように大化改新以後長い間政局を主導してきた天智天皇が没すると,翌672年には近江朝廷に拠るその子大友皇子と,吉野に隠退したその弟大海人皇子らの両派の間で,皇位継承をめぐる大規模な内乱が勃発した。壬申の乱である。結果は近江朝廷方が敗れて,大友皇子は自殺し,大海人皇子は大和に帰って飛鳥浄御原宮を造営し,天武天皇として即位する。天武天皇は旧豪族を抑え,皇親を重用して天皇中心の皇親政治を行い,八色の姓(やくさのかばね)の制定や飛鳥浄御原令の編纂など律令制国家の建設に努めた。その天武の死後には,大津皇子の謀反や皇太子草壁皇子の急死があったが,結局,皇后鸕野(うの)皇女が女帝(持統天皇)として即位し,飛鳥浄御原令の施行,藤原京への遷都など夫帝の遺業の成就に励み,かくして律令制古代国家はつぎの文武朝における大宝律令の制定によって確立された。
581年中国において隋による統一国家が実現し,東アジアの情勢が変化したのを契機に,日本の対外政策は転換し,倭の五王以来約1世紀の間中絶していた中国との国交が再開された。そして600年(推古8)を最初として小野妹子ら数次の遣隋使が派遣されるが,これは従来と異なり中国と対等の立場に立ってのものであった。隋に代わった唐に対しても,飛鳥時代全期を通じて前後7回の遣唐使が派遣され,とくに孝徳~天智朝が頻繁であった。またこれら遣隋使・遣唐使に従って多くの留学生・留学僧が派遣されたが,彼らが中国滞在中にえた新しい知識や,帰国に際して将来した文物は,日本の国政の改革,文化の発展に大きく貢献した。なかでも大化改新を導いた僧旻・高向玄理・南淵請安らは著名であり,さらに永徽令など唐の律令の受容も日本における律令制国家の建設を可能ならしめたものであった。
つぎに国内体制の整備について概観すれば,大和朝廷の政治機構は大臣・大連と,その下に有力な中央豪族出身の大夫(まえつぎみ)がいて,合議制によって政治が運用され,朝廷の職務は品部(しなべ)を率いる伴造によって世襲的に分掌されていた。推古朝に入ると,そうした氏姓(しせい)制度に基づく世襲職制の弊害を打破し,個人の能力によって昇進が可能な官僚組織を形成しようとする動きが現れる。冠位十二階と十七条憲法の制定がそれである。前者は冠位制をへて律令体制の基幹となる位階制につながるものであり,後者は官僚としての服務規律を説いたものである。また地方支配については,国造制が発展し,国造に任ぜられた地方豪族は領域内の名代(なしろ)や屯倉(みやけ)を管理し,朝廷に生産物を貢納したが,住民を戸に編成して賦役を課する組織も現れはじめ,《隋書》倭国伝は,そのころ倭国では,80戸ごとに里長にあたる伊尼冀(稲置)(いなぎ)が置かれ,さらに10の伊尼冀が一つの軍尼(国造)に属し,そうした軍尼が120人も存したと伝えている。このように推古朝以後,しだいに官僚組織が整いつつあったが,なお世襲的な氏姓制度の枠を完全に破るものでなかった。
そこで大化改新はそれらを改革し,公地公民の原則の上に立つ中央集権国家を確立しようとするものであった。《日本書紀》が646年1月に発布されたと伝える改新の詔は,のちの令によって修飾されている部分があるが,(1)皇族・豪族による土地・人民の私有を廃して公地公民とし,代りに食封(じきふ)などを給する。(2)京師・畿内国司(または畿内・国司)・郡司などの中央集権的地方統治組織と,駅馬・伝馬・関塞・防人など交通・軍事の制度を整える。(3)戸籍・計帳と班田収授の法をつくる。(4)古い賦役の制を改め,田の調,戸別の調など新しい税制を施行する,というもので,改革の要綱を示すものとみてよい。こうした改新詔の要綱が具体的にどのような過程をへて実施されていったかは,史料が乏しいためなお十分に明らかではないが,最近は木簡の出土によってある程度推測が可能となり,地方統治組織としての評-里制や50戸1里制も改新後かなり早い時期から成立していたらしいと考えられるようになった。しかし天智朝には冠位二十六階の制定,民部(かきべ)・家部(やかべ)の設置,庚午年籍の作成,太政大臣・左右大臣・御史大夫の任命が文献史料にみえ,また近江令も編纂されたと伝えられている。ついで壬申の乱後の天武・持統朝には飛鳥浄御原令の編纂・施行に伴って律令体制の形成がいっそう進み,国-評-里制の整備,戸籍6年1造と班田収授の施行などによって律令政府の基礎も確立し,つづく大宝律令の制定・施行はまさに律令制中央集権国家の完成を示すことになるが,そうした発展を象徴するのは,飛鳥中心の倭京から藤原京,そして平城京へと展開する都城の急速な拡大である。
文化については,まず前期の推古朝を中心とする文化は飛鳥文化と呼ぶ。飛鳥文化は仏教文化であるとともに,中国南北朝の文化が朝鮮三国を経由して伝えられたものであった。仏教は6世紀に伝来した当初は反対者も多かったが,受容に積極的であった蘇我氏が朝廷で実権を握ると,その信仰は急速に普及し,蘇我氏の飛鳥寺(法興寺)や,聖徳太子の斑鳩寺(法隆寺)をはじめ多くの寺院が建立され,それに伴い建築・彫刻・絵画・工芸にすぐれた仏教美術の作品が現れた。なかでも法隆寺金堂釈迦三尊像や広隆寺半跏思惟像,法隆寺玉虫厨子や中宮寺《天寿国繡帳》などが著名で,皇極朝ごろに建立されたとみられる山田寺の回廊も出土している。また仏教だけでなく,儒教・道教の思想や,天文・暦法,あるいは讖緯(しんい)説なども盛行した。この飛鳥文化に対して,後期の天武・持統朝を中心とする文化を白鳳文化と呼ぶ。やはり仏教文化が中心であるが,遣隋使・遣唐使の派遣によって直接中国文化を摂取する道が開かれ,初唐文化の影響が全般に強く認められる。代表的作品としては薬師寺東塔,興福寺仏頭・薬師寺金堂薬師三尊像・同東院堂聖観音像,法隆寺金堂壁画・高松塚古墳壁画などがあげられる。いっぽう大津皇子の漢詩文,柿本人麻呂・額田王らの和歌など文学の発達も看過できない。総じて飛鳥時代は,政治的・社会的には世襲的氏姓制から律令的官僚制への過渡期であり,文化的には隋・唐文化直接摂取の時代であった。
→飛鳥美術 →古代社会 →律令制
執筆者:岸 俊男
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古代の時代区分で6世紀中葉~7世紀前半の約1世紀をさす。飛鳥とその周辺の奈良盆地南部(奈良県)に都があったことから名づけられた。仏教伝来など中国・朝鮮の先進文化の導入,6世紀末~7世紀初の推古天皇期の国制整備や遣隋使派遣による東アジア世界での地位確立などにより,645年(大化元)以降の律令国家成立過程の前段階として特徴づけられる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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