巨勢麻呂(読み)こせのまろ

朝日日本歴史人物事典 「巨勢麻呂」の解説

巨勢麻呂

没年:養老1.1.18(717.3.5)
生年:生年不詳
7世紀末~8世紀初の官僚大海の孫,紫檀の子。持統7(693)年直広肆に昇り,慶雲2(705)年民部卿。和銅1(708)年左大弁となったが,そのとき穂積親王や左右大臣らと共に特に忠勤を賞されて,正四位下に叙せられている。翌年には鎮東将軍となって陸奥に赴いているが,その経験が,のちに参議になった折,東北経略の一策を進言させることになった。すなわち,「吏民少なく,地広い」出羽国(秋田県,山形県)に,陸奥国置賜,最上の2郡と,信濃(長野県),上野(群馬県),越前(福井県),越後(新潟県)の百姓各100戸を移して,東北経営の実をあげさせようとするものであり,この献策は実行された。死没時,中納言従三位。

(狩野久)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「巨勢麻呂」の解説

巨勢麻呂 こせの-まろ

?-717 飛鳥(あすか)-奈良時代の公卿(くぎょう)。
巨勢大海(おおあま)の孫。巨勢紫檀(したの)の子。民部卿をへて,和銅元年左大弁となる。2年陸奥(むつ)鎮東将軍となり,征越後(えちご)蝦夷将軍の佐伯石湯(さえきの-いわゆ)とともに征討軍を指揮する。霊亀(れいき)元年中納言となった。従三位。霊亀3年1月死去。名は万呂ともかく。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の巨勢麻呂の言及

【巨勢氏】より

…許勢とも記す。奈良盆地南西部を本拠地(《和名抄》に,高市郡巨勢郷がみえる。現,御所市古瀬)とした臣姓の有力古代豪族。その祖,巨勢小柄宿禰は,武内宿禰の子と伝承されており,蘇我氏,波多氏,葛城氏らとともに,武内宿禰の後裔と称していた。巨勢氏の本拠地は,曾我川の上流に近い山間で(コセの地名は,こうした地形に基づく),紀伊に至る紀路が走る要衝である。蘇我氏,波多氏,葛城氏の本拠地とも近く,いずれの地も,曾我川の灌漑範囲であること,紀路沿いであることが,武内宿禰を共通の祖と仰ぐ同族意識をはぐくんだのであろう。…

※「巨勢麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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