ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レオ3世」の意味・わかりやすい解説
レオ3世
レオさんせい
Leo III
[没]816.6.12.
ローマ出身の第96代教皇(在位 795~816)。聖人。枢機卿(→カーディナル)だった 795年12月に教皇ハドリアヌス1世の後継として選出された。799年に前教皇の支持者に襲撃され,フランク王国のパーダーボルンに逃れてカルル1世(大帝)に保護された。翌 800年,カルル1世はローマの混乱をしずめるため現地に赴いた。レオ3世は敵対勢力による罪の告発に対し,カルル1世の前で身のあかしを立てた。2日後のクリスマスの日にカルル1世を西ローマ皇帝として戴冠し(→神聖ローマ帝国),カルル1世のローマに対する世俗的支配権を承認,その庇護下に入った。また 809年に,ニカイア=コンスタンチノポリス信条のなかの「フィリオクェ」の語の正当性を認めたが,東方教会ではこれが否定されてきたため,東方教会との関係を考慮し,典礼で詠唱することは禁じた(→聖霊発出論争)。1673年に列聖された。祝日は 6月12日。
レオ3世
レオさんせい
Leo III Isauricus
[没]741.6.18. コンスタンチノープル
ビザンチン皇帝 (在位 717~741) 。北部シリア出身の軍人で,ユスチニアヌス2世の護衛役をつとめ,アナスタシウス2世の治世中テマ・アナトリコンの長官に就任。のちにテオドシウス3世の反対皇帝として立ち,717年3月同3世を退け即位,イサウリア朝 (シリア朝) を開いた。同年イスラムのカリフ,スライマーン指揮下の海軍による首都コンスタンチノープル包囲が始り,建国以来最大の危機に見舞われた。しかし,1年後に包囲を破り,これを撃退,さらにアクロイノンの戦い (740) でも勝利を収め,イスラムの侵攻を食止めた。内政的には国内整備に努力し,『ユスチニアヌス法典』の補助として,私法と刑法のガイドブック『エクロゲ』 Eklogēを発布 (726) 。宗教的には 730年1月聖画像破壊令 (→聖画像論争 ) を出し,国内に賛否両論を巻起し,ローマ教会と不和に陥り,のちの東西両教会分裂のもとをつくった。
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