イサウリア朝(読み)イサウリアちょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イサウリア朝」の意味・わかりやすい解説

イサウリア朝
イサウリアちょう
Isauri; the Dynasty of Isaurus

ビザンチン帝国王朝 (717~802) 。ヘラクリウス朝滅亡後の混乱期から小アジア出身の軍人レオ3世によって創始された。コンスタンチヌス5世,レオ4世,コンスタンチヌス6世,女帝イレネの諸皇帝を数え,その出身地が大部分シリアであることからシリア朝ともいう。ウマイア朝サラセン軍の首都コンスタンチノープル攻略を最終的に撃退し,ヨーロッパ文化圏をイスラム勢力から防衛 (717~718) ,また『ユスチニアヌス法典』後初めての刑法,私法の集大成エクロゲ』を編纂 (726) 。イスラム世界の影響下,聖画像破壊令を発布 (726) ,続くヒエリアの公会議 (754) において聖像崇拝の禁止令を発布し,その頂点をきわめ,ローマ教皇とも対立するにいたった。帝国のラベンナ総督領の喪失 (751) により,東西両教会分裂の傾向は一層強まった。聖画像破壊令は第7回ニカイア公会議 (787) で解かれたが,ブルガリア,アッバス朝との絶えざる戦闘,国内での経済的不振のうちに宮廷内のクーデターにより,女帝イレネは退位させられ王朝は滅びた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イサウリア朝」の意味・わかりやすい解説

イサウリア朝
いさうりあちょう

ビザンティン帝国中期の王朝(717~802)。創始者レオン3世(在位717~741)の出生地、小アジアのイサウリアIsauriaにちなんでこうよばれる。またシリア朝ともいう。同帝の息子コンスタンティノス5世(在位741~775)、さらにその子レオン4世(在位775~780)とその妻にしてビザンティン史上初の女帝イレーネ(在位797~802)およびイレーネの息子コンスタンティノス6世(在位780~797)を輩出。対外的には、イスラム軍による首都コンスタンティノープル攻撃をよくしのぎ(717~718)、逆にイスラム軍を大破(740)、ブルガリアに対してもたびたび遠征を行った。だが、レオン3世が聖画像崇拝を禁止(730)したため、国内はイレーネによる禁止令解除(787)まで混乱した。イタリアではランゴバルド人の南下を防げず、ラベンナの総督領を手放し、結果的にはローマ教皇とフランク王国との提携を促進した。

和田 廣]

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