朝日日本歴史人物事典 「市川三左衛門」の解説
市川三左衛門
生年:文化13.4(1816)
幕末の水戸藩諸生党の指導者。諱は弘美,父は市川弘教,母は岡部以従の娘。水戸生まれ。天保14(1843)年に家督相続。万延1(1860)年2月大寄合頭。戊午の密勅に関し返納反対を唱える長岡勢の弾圧を主張,諸生党の重鎮として幕府の信任を得,文久1(1861)年,藩内取締掛。元治1(1864)年,激派の筑波山挙兵に対し諸生党を率いて敵対,激派の執政武田耕雲斎らの失脚に鎮派と連携して成功,執政。藩主目代松平頼聡の水戸入城を拒み,幕府軍と共に頼聡軍を降伏させ,武田耕雲斎が率いる激派軍を西上に追い込んだ。大政奉還により執政免職,明治1(1868)年3月朝廷よりの処罰命令で兵を率いて会津に脱走。一旦,水戸に戻り弘道館を占拠したが結局敗北して東京に潜伏。同2年2月に逮捕され生き晒し,茨城郡長岡村(茨城県茨城町)で逆磔に処せられた。海外脱出に備えフランス語を学んでいたという。
(吉田昌彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報