ホフマン(読み)ほふまん(英語表記)Trevor William Hoffman

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホフマン」の意味・わかりやすい解説

ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)
ほふまん
Ernst Theodor Amadeus Hoffmann
(1776―1822)

18世紀末から19世紀初頭のドイツ・ロマン派の代表的作家。アマデウスは、もとの名としてはウィルヘルムであったが、モーツァルトへの傾倒から自分で生涯そのように名のった。創作の中心は小説だが、歌劇や室内楽など音楽作品、水彩画など美術作品も残している。

 ドイツはプロイセンのケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に法律家の子として生まれたが、父母の別離により幼児期には母方の実家で育つ。その地の大学で法律を学んだのち、グローガウ、ベルリンでも学び、その後は司法官の職についたが、カリカチュア事件で左遷され、1804年からは当時プロイセン支配下にあったワルシャワで政務事務官を務めた。16年ベルリンの大審院判事に任ぜられ、司法官と文学者の二重生活を送り、22年同地に没した。

 若いときから音楽創作の憧憬(しょうけい)もだしがたく、ゲーテのジングシュピールを作曲したりしていたが、ワルシャワではブレンターノの『愉快な音楽士』に基づくオペラなどを作曲。ナポレオンの制圧で公職を追われ、生活を支えるのに指揮をしたり歌ったりもしていた。1808年から宮廷楽長も務めたが、やがてバンベルクに移り、そこの劇場つきの作曲家となって、フケーの作に基づくオペラ『ウンディーネ』や合唱曲などを作曲した。

 このころG・H・シューベルトの論文『自然科学の夜の側面の見方』の影響で著作に向かう。音楽紹介や批評を書き、ベートーベンを世に広めた草分けの一人となる。文学創作は、音楽を動機に据えた『騎士グルック』(1809)、『ドン・ファン』(1813)などから始まり、次々に短編を書き、これが『カロ風幻想作品集』にまとめられていく。

 26歳でポーランド女性ミーシャと結婚。30代なかば、ピアノの家庭教師で糊口(ここう)をしのいでいた時期に、生徒で14歳の少女ユーリア・マルクに恋をしたが、親の妨害、そしてユーリアが富豪商人と結婚、この体験をホフマンは悲劇的にとらえ、これがのちのち作品に表れる女性の映像に「ユーリア体験」とよばれる形でルサンティマンの暗い影を投げかけることになる。

 ホフマンの作品では、美的観念は伝統的で、ポエジーの表現はその美的感覚による幻影に化していく。そのため、物語の怪奇性と形象の幻想性とから、非合理な世界秩序を信奉し、決定論的世界観にたつ作家のように思われがちだが、実体としてはそうではない。人工的な都会文明の構造への批判や啓蒙(けいもう)主義的合理主義への批評が、イローニッシュに現実の仮面を剥(は)ぎ、人為によってはまだ解決されてない、あるいは解決されがたい現象をデモーニッシュな亡霊のような姿でえぐり出そうとしているのである。

 長編小説では『悪魔の霊液』(1815~16)や『牡(おす)猫ムルの人生観』などの代表作のほか、最後の長編『蚤(のみ)の親方』では、時の警視総監の策動に抗して、それを戯画化したメルヘン風の物語が、作者の人生観と社会観とを風刺的によく表している。当時発禁処分となったぐらいである。

[深田 甫]

ホフマンの短編

短編の多くは、次の三つの作品集に収められている。

 詩的な幻想を媒介に、この世界の事物や人間の純粋性と存在の本質を透視する『黄金の宝壺(たからつぼ)』、狂気の様式でこの世界に存在して語り続ける一楽長の手記に失恋の苦悩や音楽観を織り交ぜた『クライスレリアーナ』、モーツァルトの歌劇を聴いた瞬間の興奮と衝撃を幻想にのせて綴(つづ)る『ドン・ファン』、鏡に姿の映らなくなった男の運命を描いた『大晦日(おおみそか)の夜の椿事(ちんじ)』などを収めた『カロ風幻想作品集』(1814)。

 幻想の虜(とりこ)となり身を投げる男の話『砂男』、古城にまつわる相続争いの執念を描いた『世襲権』、そのほか、のちにオッフェンバックの歌劇で知られるようになる『ホフマン物語』の題材となった『夜景作品集』(1817)。

 自分が細工した装飾品を奪い返すために殺人鬼と化す男の二重性格と二重生活を描いた『スキュデリ嬢』、チャイコフスキーの作曲で有名な幻想的メルヘン『胡桃(くるみ)わりと鼠(ねずみ)の王さま』、ワーグナーの楽劇となる中世の『歌合戦』をはじめ、『ファルンの鉱山』『おばけの話』『不気味な客』などの物語を、聖者セラーピオンにちなむ結社を組んだ芸術好きの仲間が、日常生活に身を潜めながらも、内部から燃え上がる衝動から書き上げた作品を持ち寄っては朗読するという形式になっていて、ボッカチオの『デカメロン』に倣って全体がいわゆる「枠構造」でまとめられている『セラーピオン朋友(ほうゆう)会員物語集』(1819~21)。

 ほかに、ボードレールが「高級美学の教理綱要集」と絶賛した幻想的な小説『ブランビルラ王女』や、妖怪(ようかい)の老女に魔力を授けられて、周りの人が成し遂げたはずの功績をすっかり自分のものにしてしまい、大臣にまで成り上がっていく小男と、それに善意の魔力で対決していく小男とを、一体の表裏として描いていく『ちびのツァッヘス』などがある。

[深田 甫]

『深田甫訳『ホフマン全集』全12冊(1971~・創土社)』『池内紀編訳『ホフマン短篇集』(岩波文庫)』『松居友訳、M・ラボチエッタ絵『ホフマン物語』(1982・立風書房)』


ホフマン(August Wilhelm von Hofmann)
ほふまん
August Wilhelm von Hofmann
(1818―1892)

ドイツの有機化学者。ギーセンの生まれ。父は建築家で、リービヒの実験室を拡張した。1836年ギーセン大学に入学、最初は法律と言語学を学んだが、リービヒにひかれて化学に転じ、1841年コールタール研究で学位を得た。リービヒの私的な助手を1843年まで務め、1845年春ボン大学私講師となったが、同年秋、ロンドンに新設のロイヤル・カレッジ・オブ・ケミストリーの教授に招かれ、以降20年間をイギリスで過ごした。このカレッジはリービヒのギーセン実験室に倣って、農芸、薬、工業化学などを教えるために建てられた私立学校で、ここでホフマンはW・クルックス、マンスフィールドCharles Blachford Mansfield(1819―1855)、J・A・R・ニューランズ、ニコルソンEdward C. Nicholson(1827―1890)、W・H・パーキン、またドイツ人のP・グリース、メルクGeorg Merck(1825―1873)など多数の人材を育てた。1861年ケミカル・ソサイエティー・オブ・ロンドン会長となり、また広くイギリス政府の科学技術的諮問にこたえた。1865年ドイツに帰り、ベルリン大学教授となり、1867年ドイツ化学会を設立、以後何度も会長に選ばれた。

 彼の研究はアニリンを中心とする。初期の研究は理論的なもので、1850年にはアニリン構造について、アミド説(リービヒ)とアンモニア説(ベルツェリウス)が対立していたなかでアンモニア説をとり、アンモニアNH3の水素1原子をフェニル基C6H-5で置換したものに相当するとし、臭化アルキルをアニリンに作用させてその理論を検証した。そして、アンモニアの水素を炭化水素基で置換した一群の化合物を「アンモニア型」と分類した。1856年パーキンのアニリン染料合成に刺激され、染料合成の仕事を進めた。アニリン染料の出発点となる物質は純粋のアニリンではなく、アニリンとトルイジンの混合物であるとし、赤色染料ローズアニリンを研究し、自らホフマン紫を合成した。このほか、アリル化合物、ホルムアルデヒドイソニトリルなどについても研究し、全部で277編にも上る論文を書き、工業についても染料のほか、無機化学、製薬工業にも貢献した。

[道家達將]

『田中実「ホフマン」(『化学』Vol.14,No.6所収・化学同人)』


ホフマン(Jules Alphonse Hoffmann)
ほふまん
Jules Alphonse Hoffmann
(1941― )

フランスの生理学者(生物学)。ルクセンブルグに生まれる。ストラスブール大学で生物学と化学で学士号を取得後、1969年同大で博士号取得。1974年からフランス国立科学研究センター(CNRS:Centre national de la recherche scientifique)の研究チームの責任者として活動。1993年からフランス国立科学研究センターの付属研究所である細胞分子生物学研究所(IBMC:Institut de biologie moléculaire et cellulaire)で細胞バイオロジー学会の責任者を務める。ストラスブール大学客員教授、フランス科学アカデミー会長を務めた。2011年に「自然免疫の活性化に関する発見」の業績により、ブルース・ボイトラーとノーベル医学生理学賞を共同受賞した。

 免疫には、生まれながらにして保有する免疫(自然免疫)と、いろいろな抗原にさらされて後天的に獲得する免疫(獲得免疫)とがあるが、ホフマンはおもに自然免疫の仕組みの解明に貢献した。人間の免疫機構では、外から体内に侵入してきたウイルスや病原細菌などを、白血球のT細胞が認識してB細胞に抗体を作製させている。この抗体や別の免疫細胞を働かせて病原体を排除しており、これが獲得免疫のメカニズムとされてきた。B細胞は、同じ抗体をいつでも作製できるように記憶しており、T細胞が獲得免疫の司令塔の役割をすると考えられていた。

 1973年、アメリカの生理学者ラルフ・スタインマンは新たな免疫細胞を発見し「樹状細胞」と名づけた。ボイトラーらは、この樹状細胞を詳しく研究、樹状細胞が皮膚など全身に存在し、ウイルスや細菌の侵入を探知すると、仲間の細胞をよび集め細菌やウイルスを攻撃することをつきとめた。さらに1996年、ホフマンらはショウジョウバエを用いた実験により、ある遺伝子(Toll(トール)遺伝子とよばれる)がカビの感染を防御していることを発見した。1998年ボイトラーは、ヒトやマウスの樹状細胞にも同様の遺伝子があり、それをもとに作製されるタンパク質が病原体を探知するセンサーの役割をしていることも発見。樹状細胞の発見と研究は、自然免疫とよばれることになる新しい免疫機構の究明に寄与した。また、これらの研究成果により、獲得免疫機構においても、T細胞に抗体作製の指令を出しているのは樹状細胞であることもわかってきた。スタインマン、ボイトラー、ホフマンらによって免疫のメカニズムが明らかにされ、免疫療法などの分野への可能性が広がった。なお、スタインマンも「樹状細胞と獲得免疫におけるその役割の発見」により、ともにノーベル医学生理学賞を受賞している。

[馬場錬成]


ホフマン(Trevor William Hoffman)
ほふまん
Trevor William Hoffman
(1967― )

アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のフロリダ・マーリンズ、サンディエゴ・パドレスで投手としてプレー。チェンジアップを武器にするナショナル・リーグ屈指の抑え投手(クローザー)である。

 10月13日、カリフォルニア州ベルフラワーで生まれる。アリゾナ大学から1989年、ドラフト11巡目指名を受けてシンシナティ・レッズに入団。最初の2年間はマイナーで内野手としてプレーしていた。しかし芽が出ず、1991年から投手へと転向した。1992年のシーズンオフに、翌年から誕生する新球団のため選手供出を目的とするエキスパンション・ドラフトが行われ、マーリンズから指名されて移籍。1993年に大リーグ昇格を果たしたが、シーズン途中でパドレスへトレードされた。そして1994年から抑え役に抜擢されると、20セーブをあげた。自己最高のシーズンとなったのは1998年で、66試合に登板して4勝2敗、防御率1.48、投球回数73で奪三振86をマークし、セーブ機会54で53セーブを記録、完璧な投球であった。この活躍で、チームは14年ぶりのリーグ優勝を果たした。1999年からも3年連続40セーブ以上で、2002年は38セーブをマーク。2003年は右肩の故障のため9試合の登板に終わったが、04年、05年と2年続けて40セーブ以上をマークして復活を遂げた。また2005年は7年ぶりの地区優勝に貢献、さらに史上3人目となる通算400セーブも記録した。同年シーズンオフにFA(フリーエージェント)の権利を得たが、パドレスと新たに2年契約を結んだ。

[山下 健]

2006年以降

2006年は65試合に登板、セーブ機会51で46セーブをあげ、2回目のセーブ王を獲得。チームの2年連続地区優勝に貢献した。2007年は登板61試合、セーブ機会49で42セーブ。6月には対ロサンゼルス・ドジャース戦で大リーグ史上初の500セーブを達成した。

 2007年までの通算成績は、登板試合881、投球回942と3分の2、53勝60敗、セーブ524、防御率2.73、奪三振1009、完投0、完封0。獲得したおもなタイトルは、最多セーブ2回。

[編集部]


ホフマン(Roald Hoffmann)
ほふまん
Roald Hoffmann
(1937― )

アメリカの化学者。ポーランドのズウォツォフ(現、ウクライナのゾロチェフ)に生まれる。ナチスによってユダヤ人の両親とともに強制収容所(ゲットー)に送られたが脱走し、学校の屋根裏で生活した。1944年に解放され、1949年にアメリカに渡った。1958年にコロンビア大学を卒業、ハーバード大学に進学して化学を学び、1962年に博士号を取得した。1965年コーネル大学の準教授に就任、1968年教授となった。1990年に放送されたテレビの科学啓蒙番組『化学の世界』の制作に参加し、案内役として出演した。

 ホフマンは、ハーバード大学でウッドワードと有機化学の応用理論について共同研究を行い、1965年に、有機化合物の反応において、反応に関与する分子軌道の間に対称性の保存されていることを発見した。この法則はウッドワード‐ホフマン則と名づけられ、化学反応のおこりやすさを理論的に予測することを可能にしたものとして高い評価を得た。また、同種の概念は福井謙一がフロンティア電子理論として発表していた。1981年、化学反応過程に関する理論の発展に貢献したとして、福井とともにノーベル化学賞を受賞した。

[編集部 2019年1月21日]

『ホフマン著、小林宏他訳『固体と表面の理論化学』(1993・丸善)』


ホフマン(Friedrich Hoffmann)
ほふまん
Friedrich Hoffmann
(1660―1742)

ドイツの医学者。2月19日ハレに生まれ、イエナ、エルフルトで医学を学ぶ。ミンデンで実地医療に携わり、その間イギリスに旅行して化学者のボイルと親交を結んだ。1693年新設のハレ大学教授に迎えられて、ほぼ終生この職にあり、当地の名を高めた。1742年11月12日没。

 ホフマンは、ハレ大学の同僚G・E・シュタール、ライデンのブールハーフェと並ぶ18世紀初頭の医学の体系家であった。シュタールがアニマという概念によって形相を重んじたのに対して、ホフマンは運動の法則を重視し、決定論に傾斜したといわれる。ホフマンにとって、人体は1個の機械であり、脳に由来して全身に行き渡る精気や血管内の血液の動き、種々の病的現象を引き起こす組織の緊張や弛緩(しかん)など、すべてが物理の法則で説明できると考えた。実証よりも思弁が先行したのは、当時の物理、化学の水準を反映している。薬物療法にも多くのくふうを加え、また『体系・合理医学』『医学の基礎』など多数の著作を残した。

[梶田 昭]


ホフマン(Johann Joseph Hoffmann)
ほふまん
Johann Joseph Hoffmann
(1805―1878)

ドイツの日本学者、中国学者。2月16日ウュルツブルクに生まれる。劇場歌手となったが、1830年にシーボルトに出会い、以後41歳までその助手として『記録・ニッポン』の編纂(へんさん)を助ける。1846年オランダ植民省翻訳局に勤め、1855年ライデン大学の日本学講座初代正教授となる。本格的日本語文法書『日本文典』の英語版・オランダ語初版を1867~1868年に出版(1876年に英語再版、1877年にドイツ語版)。日本語辞書も手がけるが、未完のまま1878年1月19日ライデンで没。

[古田 啓 2018年8月21日]

『『ヨハン・ヨゼフ・ホフマン』(『幸田成友著作集4』所収・1972・中央公論社)』『フランツ・バビンガー著、古田啓訳「ホフマン伝」(『日本語学』1986年6~8月号所収・明治書院)』


ホフマン(Josef Hoffmann)
ほふまん
Josef Hoffmann
(1870―1956)

オーストリアの建築家。ピルニッツに生まれる。ウィーンの美術学校で建築を学び、オットー・ワーグナーに深い影響を受けた。1897年ウィーン分離派の創立者の1人となり、師の合理主義を推進させるというよりも、洗練された感覚面で過去からの「分離」を目ざした。1903年、コロマン・モーザーらとウィーン工房を設立し、工芸界の刷新に携わった(1933閉鎖)。代表作であるブリュッセルのストックレ邸(1905~11)もこうした高雅な趣味性に貫かれている。14年のドイツ工作連盟のケルン博ではオーストリア館を設計し、分離派以来の成果を示した。1899~1936年ウィーン工芸学校教授を務め、ウィーンに没した。

[高見堅志郎]


ホフマン(Heinrich Hoffmann)
ほふまん
Heinrich Hoffmann
(1809―1894)

ドイツの医者、絵本作家。フランクフルトに生まれ、各地の大学で勉強したのち、故郷の市立精神科病院の医長を務めた。1844年のクリスマスに、3歳の息子への贈り物に絵本を買おうとしたが、適当なものがないので、自分で絵を描き、文章を添えて与えた。それが偶然フランクフルトの出版者の目に留まって印刷され、『もじゃもじゃペーター』(1845)として世に出るや、すぐ国際的に評価され、各国語に翻訳された。教訓的な内容だが、いまなお価値を失わない。

[関 楠生]

『伊藤庸二訳『ぼうぼうあたま』(1980・教育出版センター)』


ホフマン(Hans Hofman)
ほふまん
Hans Hofman
(1880―1966)

ドイツ出身のアメリカの画家。バイエルン州ワイセンブルクに生まれる。ミュンヘンで美術を学んだのち、パリに出てマチスに師事した。帰国後ミュンヘンで美術学校を創立するが、1930年アメリカに移住し、カリフォルニア大学などで教鞭(きょうべん)をとり、ニューヨークでふたたび美術学校を創設して多くの後進を育てた。幾何学的構成による抽象絵画を描いたが、のちに抽象表現主義の影響から激しい筆触を生かした作風に転じた。ニューヨークで没。

[石崎浩一郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホフマン」の意味・わかりやすい解説

ホフマン
Hoffman, Philip Seymour

[生]1967.7.23. ニューヨーク,フェアポート
[没]2014.2.2. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の俳優。ニューヨーク大学ティッシュ芸術校で演技を学び,舞台の仕事についた。映画『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』Scent of a Woman(1992)で注目を集める。ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ブギーナイツ』Boogie Nights(1997)で熱演して評判を呼び,同監督の『マグノリア』Magnolia(1999),『パンチドランク・ラブ』Punch Drunk Love(2002)にも出演。2005年,『カポーティ』Capoteで作家トルーマン・カポーティが代表作『冷血』In Cold Bloodを書きあげるまでを巧みに誠実に演じきり,アカデミー賞主演男優賞ほか数々の賞を手にした。その後も『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』Charlie Wilson's War(2007),『ダウト~あるカトリック学校で~』Doubt(2008),『ザ・マスター』The Master(2012)などで高く評価される。『ジャック,船に乗る』Jack Goes Boating(2010)で監督デビュー。舞台俳優としても活躍し,サム・シェパード原作『トゥルー・ウエスト』True West(2000),ユージン・グラッドストン・オニール作『夜への長い旅路』Long Day's Journey into Night(2003)やアーサー・ミラー作『セールスマンの死』Death of a Salesman(2012)に出演した。また演劇界でも制作者,監督として活躍した。

ホフマン
Hoffman, Dustin

[生]1937.8.8. カリフォルニア,ロサンゼルス
アメリカ合衆国の俳優。サンタモニカ・シティー・カレッジで音楽を専攻したが,19歳で中退して俳優の道に入った。ニューヨークに移り住み,職を転々としながら下積み生活を送る。数年後,ようやくテレビドラマの端役やオフ・ブロードウェーの主役を演じるようになり,オビー賞を 1回受賞した。映画出演 2作目となったマイク・ニコルズ監督の『卒業』The Graduate(1967)で,大学を卒業し将来を模索する 21歳の主人公を好演してスターの仲間入りを果たしたが,このときの実年齢は 30歳であった。ジョン・シュレシンジャー監督の『真夜中のカーボーイ』Midnight Cowboy(1969,アカデミー賞作品賞)では結核を患うホームレスを演じ,予想外の反響を呼んだ。3回のノミネートを経て,『クレイマー,クレイマー』Kramer vs. Kramer(1979)でついにアカデミー賞主演男優賞を獲得。『レインマン』Rain Man(1988)では特殊な能力をもつ自閉症の中年男性をみごとに演じ,再びアカデミー賞主演男優賞に輝いた。他の代表作は,『トッツィー』Tootsie(1982),『ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ』Wag the Dog(1997)など。

ホフマン
Hoffmann, Jules

[生]1941.8.2. ルクセンブルク,エヒテルナハ
フランスの生理学者。ルクセンブルクの中等学校に学んだのち,フランスのストラスブール大学で生物学と化学を学び,1969年に同大学で生物学の博士号を取得。長くフランス国立科学研究センター CNRSに務め,1993年から 2005年まで同センター分子細胞生物学研究所の所長を務めた。2007年から 2008年までフランス科学アカデミー会長。リンパ球や抗体など獲得免疫が存在しない昆虫の生体防御機構を研究していたが,1996年にショウジョウバエの体つくりにかかわる遺伝子 Tollが生体防御にもかかわっていることを発見した。この発見を契機に,翌 1997年にはヒトにも Toll様受容体 TLRと相同の遺伝子 TLR4があることが発見され,免疫活動の引き金を引くとわかった。2011年,同じく生体が生まれながらにもっている細菌などのセンサ機構を解明,自然免疫の仕組みを解明したブルース・A.ボイトラー,外敵に対する獲得免疫応答の鍵となる樹状細胞を発見したラルフ・M.スタインマンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。(→免疫

ホフマン
Hoffmann, Ernst Theodor Amadeus

[生]1776.1.24. ケーニヒスベルク
[没]1822.6.25. ベルリン
ドイツの小説家,作曲家,音楽評論家,画家,法律家。モーツァルトへの傾倒から本名 Wilhelmを Amadeusと改めた。ケーニヒスベルク大学で法律を学んだのち,上級裁判所判事,音楽家などとして暮しを立てながら文学活動に入り,傑作『黄金のつぼ』 Der goldne Topfを含む短編集『カロー風の幻想画集』 Phantasiestücke in Callots Manier (4巻,1814~15) で一挙に文名を高めた。 1816年以後,昼間はベルリン大審院の勤勉な判事,夜は酒場に入りびたる放恣な幻想作家という二重生活はそのまま彼の作風の特徴をなし,後期ロマン派の代表であると同時に,リアリズムの先駆ともみられている。無理な生活がたたって 46歳で病死。小説『悪魔の霊薬』 Elixiere des Teufels (15~16) ,『牡猫ムルの人生観』 Lebensansichten des Katers Murr (20~22) などをはじめ多作。

ホフマン
Hoffmann, Josef

[生]1870.12.15. ピルニッツ
[没]1956.5.7. ウィーン
オーストリアの建築家。ウィーン美術学校で O.ワーグナーに学び,最も信頼される弟子となる。ワーグナーの合理主義的な設計に影響を受けるが,装飾を軽視せず,優雅で洗練された作風が特徴。 1897年ウィーン・ゼツェッシオン創立に参加,アーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受け,1903年ウィーン工房 (1933閉鎖) を設立,以後 30年間活発な建築活動を展開。主な作品はプルカルスドルフ療養所 (03) ,ブリュッセルのストックレー邸 (05~11) など。

ホフマン
Hoffmann, Friedrich

[生]1660.2.19. ハレ
[没]1742.11.12. ハレ
ドイツの医学者。 17世紀末~18世紀前半に活躍したいわゆる医学の体系学派の一人で,医物理学派と医化学派の思潮をともにふまえたうえに G.ライプニッツの唯心論を加味して生命や病気の解釈に折衷派の体系を立てた。彼の主張は,生命は運動であり,血液循環はその基本で,これを動かすものを生命の特質「張力」とした。そしてこの力源をエーテルに求め,呼吸とともに脳に入り,神経エーテルになって各筋,線維に張力を与えるとした。また,ホフマンの鎮痛薬といわれるものなど,多くの新薬を創案した。イェナ大学で学位を得,フランス,イギリスで学び,1694年から没するまでハレ大学教授。その間,3年間はベルリンでプロシア王フリードリヒ1世の侍医であった。

ホフマン
Hoffmann, Stanley Harry

[生]1928.11.27. ウィーン
アメリカの政治学者。 1952年ハーバード大学で修士号,53年パリ大学で博士号を得た。 60年アメリカ国籍を取得。その後ハーバード大学国際問題研究所所員,同大学政治学教授。研究分野は国際政治学,国際法,政治学,フランス思想史,歴史社会学など広範で,アメリカ,フランスの政治,外交に関する著書,論文も多い。フランスの社会学者 R.アロンの系譜をひいており,特に国際関係の理論的探究では早くから「国際政治における安定性と力の崩壊」を指摘し,国際関係の体系的・科学的研究と国際関係の哲学との合流の問題を主張している。主著"The State of War" (1965) ,"Primacy or World War" (78) 。

ホフマン
Hoffmann, Roald

[生]1937.7.18. ズロクゾウ
ポーランド生れのアメリカの化学者。 1949年,家族とアメリカに移住しコロンビア大学を卒業 (1949) ,ハーバード大学で博士号を取得し (62) ,65年コーネル大学に転じた。同年 R.B.ウッドワードとの共同研究で,ウッドワード=ホフマン則を提唱。独自に化学反応過程の電子状態研究に業績をあげた福井謙一とともに 81年ノーベル化学賞を受賞した。

ホフマン
Hoffmann, Johann Joseph

[生]1805.2.16.
[没]1878.1.23.
ドイツの日本学者。 1830年 P.シーボルトに会い,その助手として日本の研究に従事。オランダ東インド会社書記を経て,35年にはライデン大学日本講座担当教授となり,シーボルトとともに,『ニッポン』 Nippon (1832~54) を公刊するなど,ヨーロッパの日本研究の基礎を築いた。

ホフマン
Hoffmann, Theodor Eduard

[生]1837
[没]?
ドイツの軍医。ブレスラウおよびベルリンの軍医学校に学び,明治4 (1871) 8月 L.ミュラーとともに東校の教師として来日。内科学を担当した。 1874年任期終了後宮内省お雇いとなって 75年秋に帰国した。著作に『日本の脚気論』がある。

ホフマン
Hoffmann, Hermann

[生]1864
[没]1937
ドイツ生れのイエズス会士。日本にカトリック大学を創立するため来日。 1913年上智学院を設立,28年旧制の上智大学に昇格して以来,37年まで初代学長。

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