日本大百科全書(ニッポニカ) 「市辺押磐皇子」の意味・わかりやすい解説
市辺押磐皇子
いちのべのおしわのおうじ
生没年不詳。5世紀中ごろの有力な王族。父は履中天皇、母は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子葦田宿禰(あしたのすくね)の娘、黒媛(くろひめ)。市辺押歯別王、磐坂皇子、磐坂市辺押羽皇子、市辺王などにもつくる。市辺は大和国山辺郡の地名にちなむ。蟻臣(ありのおみ)の娘、荑媛(はえひめ)を妻とし、顕宗天皇、仁賢天皇を設けた。『日本書紀』の安康紀には、安康天皇が皇位を、葛城氏を外戚とする有力な皇位継承資格者であった市辺押磐皇子に伝えようとしたので、雄略天皇はこれを恨み、近江国来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)に狩猟と称して、誘き出し射殺したと伝える。2人の子は難を避けて、播磨国に逃れたという。その後、子の弘計王(おけのおう)が顕宗天皇として即位し、父の骨を探し求めたところ、近江国の老婆が骨を埋めた所を教えてくれた。民を使って蚊屋野の東山に御陵をつくって、埋葬したという。「市辺天皇命」(『播磨国風土記』)、「於市辺宮治天下天万国万押磐尊(いちのべのみやにあめのしたしらししあめよろずくによろずおしはのみこと)」などと追号されていることから、即位説もあるが確証はない。
[仁藤敦史]
『北郷美保著「顕宗・仁賢即位伝承雑考」(佐伯有清編『日本古代史論考』所収・1980・吉川弘文館)』