幣原 坦
シデハラ ヒロシ
- 専攻分野
- 南島史,東洋史
- 肩書
- 枢密顧問官,台北帝大総長
- 生年月日
- 明治3年9月18日
- 出生地
- 堺県茨田郡門真村(現・大阪府門真市)
- 学歴
- 帝大文科大学(現・東大)国史科〔明治26年〕卒
- 学位
- 文学博士〔明治37年〕
- 経歴
- 明治26年鹿児島造士館教授、30年山梨県立中学校長、33年東京高等師範学校教授、38年韓国政府学政参与官、39年文部省視学官、43年東京帝大教授兼任、大正2年広島高等師範学校長、9年文部省図書局長などを経て、昭和3年台北帝大初代総長となり、10年退官、名誉教授。17年興南錬成学院(のち大東亜錬成院)初代総長、19年辞職。21年枢密顧問官。著書に「南島沿革史論」「朝鮮教育論」「植民地教育」「南方文化の建設」「極東文化の交流」など。
- 没年月日
- 昭和28年6月29日
- 家族
- 弟=幣原 喜重郎(首相)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
幣原 坦
シデハラ ヒロシ
昭和期の官僚,教育家 枢密顧問官;台北帝大総長。
- 生年
- 明治3年9月18日(1870年)
- 没年
- 昭和28(1953)年6月29日
- 出生地
- 堺県茨田郡門真村(現・大阪府門真市)
- 学歴〔年〕
- 帝大文科大学(現・東大)国史科〔明治26年〕卒
- 学位〔年〕
- 文学博士〔明治37年〕
- 経歴
- 明治26年鹿児島造士館教授、30年山梨県立中学校長、33年東京高等師範学校教授、38年韓国政府学政参与官、39年文部省視学官、43年東京帝大教授兼任、大正2年広島高等師範学校長、9年文部省図書局長などを経て、昭和3年台北帝大初代総長となり、10年退官、名誉教授。17年興南錬成学院(のち大東亜錬成院)初代総長、19年辞職。21年枢密顧問官。著書に「南島沿革史論」「朝鮮教育論」「植民地教育」「南方文化の建設」「極東文化の交流」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
幣原坦 しではら-たいら
1870-1953 明治-昭和時代の教育者,官僚。
明治3年9月18日生まれ。幣原喜重郎の兄。東京高師教授,文部省視学官兼東京帝大教授,広島高師校長などをへて,昭和3年台北帝大の初代総長となる。17年南方占領地域への派遣官吏養成機関である興南錬成院の初代院長。戦後,枢密顧問官。昭和28年6月29日死去。82歳。大阪出身。帝国大学卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
幣原 坦 (しではら ひろし)
生年月日:1870年9月18日
昭和時代の教育者;官僚。枢密顧問官;台北帝国大学総長
1953年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の幣原坦の言及
【沖縄学】より
…初期段階では学術的に未開拓の沖縄に魅せられた研究者の先駆的な業績がある。チェンバレン《琉球語文典及び語彙》(1895),幣原坦《南島沿革史論》(1899),加藤三吾《琉球の研究》(1906‐07)等である。中等学校教師として来島し,多くの研究論文をのこした人の功績も大きい。…
【幣原喜重郎】より
…第1次世界大戦後のワシントン体制のもとで活躍し,当時の日本外交を代表する外交官。憲政会・立憲民政党系の内閣の外相を歴任し,その国際協調主義的な政策は〈幣原外交〉と呼ばれた。第2次大戦後2代目の首相。大阪府生れ。兄の坦(ひろし)(1870‐1953)はのち台北帝大総長。夫人は岩崎弥太郎の娘で加藤高明夫人の妹。 第三高等中学校を経て帝国大学法科大学を1895年に卒業,外交官試験に合格して外務省に入る。仁川,ロンドンなどに在勤ののち本省の電信・取調各課長,取調局長となり,外国人顧問のアメリカ人デニソンHenry W.Denison(1846‐1914)に師事して外交事務に習熟し,屈指の英語力を磨いた。…
※「幣原坦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」