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幣原喜重郎 しではらきじゅうろう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう

[生]明治5 (1872).8.11. 大阪
[没]1951.3.10. 東京
大正・昭和期の外交官,政治家。1895年帝国大学(→東京大学)法科大学法律学科を卒業,農商務省に入ったが翌 1896年外交官試験に合格,外務省に転じた。仁川(→インチョン(仁川)直轄市)をふりだしにロンドンアントウェルペン領事館に勤務。

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デジタル大辞泉の解説

しではら‐きじゅうろう〔‐キヂユウラウ〕【幣原喜重郎】

[1872~1951]外交官・政治家。大阪の生まれ。ワシントン会議全権委員として出席。四度外相を務め、対英米協調外交を推進した。第二次大戦後、東久邇内閣のあとを受けて組閣し、新憲法草案作成に尽力。→吉田茂

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百科事典マイペディアの解説

幣原喜重郎【しではらきじゅうろう】

大正・昭和の外交官,政治家。大阪の生れ。東大卒後,外交官生活に入り,1915年以後大隈重信寺内正毅原敬内閣の外務次官を務め,1924年加藤高明内閣外務大臣に就任した。
→関連項目内田康哉中村大尉事件日本自由党民主自由党

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

幣原喜重郎 しではら-きじゅうろう

1872-1951 大正-昭和時代の外交官,政治家。
明治5年8月11日生まれ。岩崎弥太郎の娘婿。幣原坦(たいら)の弟。駐米大使をへて,ワシントン会議全権委員となる。大正末から昭和初期にかけて第1・第2次加藤高明,第1次若槻,浜口,第2次若槻内閣の外相となり,対英米協調を旨とする幣原外交を展開。昭和20年首相となり,憲法改正にあたった。24年衆議院議長。昭和26年3月10日死去。78歳。大阪出身。帝国大学卒。著作に「外交五十年」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

幣原喜重郎

没年:昭和26.3.10(1951)
生年:明治5.8.11(1872.9.13)
大正昭和期の外交官,政治家。堺県茨田郡真門村(大阪府門真市)に幣原新治郎の次男として生まれる。長兄坦は台北帝国大学総長,枢密顧問官。明治28(1895)年帝大法科大学卒業。翌29年外務省入省。以後累進し,大正4(1915)年第2次大隈内閣で外務次官となる。そこでシベリア出兵,パリ講和会議等第1次大戦時の諸問題に従事した。8年駐米大使,10年末のワシントン会議では全権委員として海軍軍縮および中国・太平洋における現状維持をめぐって列強との協調を図った。13年6月から昭和2(1927)年4月までの第1次外相期(護憲3派内閣から若槻内閣まで)および,4年7月から6年12月までの第2次外相期(浜口内閣から第2次若槻内閣まで)に,中国市場の確保を前提に英米から協調を調達するいわゆる「幣原外交」を展開,ロンドン海軍軍縮条約,日中関税協定などを締結した。しかし,対中国直接交渉が不調ななか,関東軍によって満州事変が起こされ若槻内閣の総辞職とともに退陣した。敗戦後は政治家として昭和20(1945)年10月に首相。また,同24年には衆院議長に就任。<著作>『外交五十年』<参考文献>幣原平和財団編『幣原喜重郎

(小池聖一)

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世界大百科事典 第2版の解説

しではらきじゅうろう【幣原喜重郎】

1872‐1951(明治5‐昭和26)
第1次世界大戦後のワシントン体制のもとで活躍し,当時の日本外交を代表する外交官。憲政会・立憲民政党系の内閣の外相を歴任し,その国際協調主義的な政策は〈幣原外交〉と呼ばれた。第2次大戦後2代目の首相。大阪府生れ。兄の坦(ひろし)(1870‐1953)はのち台北帝大総長。夫人は岩崎弥太郎の娘で加藤高明夫人の妹。 第三高等中学校を経て帝国大学法科大学を1895年に卒業,外交官試験に合格して外務省に入る。仁川,ロンドンなどに在勤ののち本省の電信・取調各課長,取調局長となり,外国人顧問のアメリカ人デニソンHenry W.Denison(1846‐1914)に師事して外交事務に習熟し,屈指の英語力を磨いた。

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大辞林 第三版の解説

しではらきじゅうろう【幣原喜重郎】

1872~1951) 外交官・政治家。大阪生まれ。東大卒。四度外相となる。その国際協調主義政策は軍部から幣原軟弱外交と非難された。第二次大戦後、東久邇内閣の後継首相として組閣、新憲法制定に着手した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう
(1872―1951)

政治家、外交官。明治5年8月11日大阪府生まれ。1895年(明治28)帝国大学法科大学英法科を卒業。翌年外務省に入り、朝鮮、イギリスなどの領事館に在勤。1903年(明治36)岩崎久弥(いわさきひさや)の妹雅子(まさこ)と結婚、三菱(みつびし)財閥の女婿かつ加藤高明(かとうたかあき)の義弟となる。1915年(大正4)外務次官となり、1919年駐米大使、1921年にはワシントン軍縮会議の全権として手腕を振るう。1924年加藤高明内閣の外相に就任、彼自身は政党に所属しなかったものの、以後田中義一(たなかぎいち)政友会内閣時代を除いて、第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)憲政会、浜口雄幸(はまぐちおさち)、第二次若槻民政党各内閣の外相を歴任、イギリス・アメリカ両国との協調外交、いわゆる幣原外交を推進した。その特徴は中国への内政不干渉主義であり、それによって中国ナショナリズムを刺激することを避け、日本の中国での経済的権益を維持、拡大することにあった。満蒙(まんもう)特殊権益論を唱え、在留邦人の保護を名目に対支強硬政策を主張する政友会、陸軍などは「幣原軟弱外交」として非難したが、1930年(昭和5)中国との関税協定、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。後者に反感をもつ右翼が浜口首相を狙撃(そげき)し重傷を負わすと、幣原が首相代理となった。1931年4月、第二次若槻内閣の外相に留任したが、9月に起こった満州事変の処理に失敗し同年末政界から退き、以後第二次世界大戦中は要職を占めることがなかった。終戦後、親英米派の外交通ゆえに東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣の後継首相として1945年(昭和20)10月政界に復帰、天皇人間宣言の起草など天皇制護持に努め、また日本国憲法制定過程に立ち会った。占領軍による一連の民主化政策には後手後手の対応しかできなかった。1946年4月の総選挙後も政権居座りを図ったが、幣原内閣打倒四党共同委員会がつくられ、総辞職に至った。第一次吉田茂内閣成立後進歩党総裁となり、1947年総選挙で初めて衆議院に議席を獲得、以後民主党・民主自由党の最高顧問、1949年2月には衆議院議長となったが、在任中の昭和26年3月10日死去した。[宮 章]
『幣原喜重郎著『外交五十年』(1951・読売新聞社) ▽幣原平和財団編・刊『幣原喜重郎』(1955) ▽宇治田直義著『幣原喜重郎』(1958・時事通信社) ▽服部龍二著『幣原喜重郎と二十世紀の日本――外交と民主主義』(2006・有斐閣) ▽岡崎久彦著『幣原喜重郎とその時代』(PHP文庫)』

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世界大百科事典内の幣原喜重郎の言及

【進歩党】より

…公職追放で議員の95%弱である260名を失い,46年4月の総選挙では当選94名で社会党とほぼ同数であり第二党の地位しか得られず,保守主流の役を自由党に譲る結果となった。党首には初め宇垣一成を擁立する動きがあったが,45年12月18日町田忠治を総裁に決定,町田が追放されて以降は斎藤,犬養健らで運営,46年4月に入ってようやく首相を辞任した幣原喜重郎を総裁として迎え入れた。幣原内閣の与党であった進歩党は国民の批判を浴びて苦境に立っていたが,第1次吉田茂内閣の成立で救われ,再び与党として閣僚を送った。…

【天皇人間宣言】より

…この詔勅では太平洋戦争敗北後の新日本建設の指針として1868年(明治1)の五ヵ条の誓文を掲げ,ついで天皇と国民の紐帯(ちゆうたい)は神話と伝統によって生じたものではなく,また天皇を現人神(あらひとがみ)としそれを根拠に日本民族の他民族に対する優越を説く観念に基づくものでもないとして,天皇の神格を否定した。この詔勅はGHQの支持を受けて幣原喜重郎首相が英文で起草し,占領軍による日本民主化政策の一環として発せられた。それまで国家神道を中心に国民の戦争への動員がなされてきたので,発布時には天皇の神格否定の側面が国民に強い印象を与えたが,1977年8月,昭和天皇はこの宣言の〈神格否定は二の問題〉であり,五ヵ条の誓文が民主主義の伝統を表すものであることを強調したのだと発言した。…

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