幣原喜重郎(読み)しではらきじゅうろう

精選版 日本国語大辞典 「幣原喜重郎」の意味・読み・例文・類語

しではら‐きじゅうろう【幣原喜重郎】

外交官、政治家。大阪府堺出身。東京帝国大学卒業後外務省にはいり、大正一三年(一九二四)以降加藤・若槻・浜口の各内閣で外務大臣をつとめ、幣原外交と称される親英米政策をとったため、軍部・右翼から軟弱外交と非難された。第二次世界大戦後東久邇内閣の後をうけて組閣、新憲法草案の作成に当たる。進歩党総裁、衆議院議長を歴任。著に「外交五十年」がある。明治五~昭和二六年(一八七二‐一九五一

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デジタル大辞泉 「幣原喜重郎」の意味・読み・例文・類語

しではら‐きじゅうろう〔‐キヂユウラウ〕【幣原喜重郎】

[1872~1951]外交官・政治家。大阪の生まれ。ワシントン会議全権委員として出席。四度外相を務め、対英米協調外交を推進した。第二次大戦後、東久邇内閣のあとを受けて組閣し、新憲法草案作成に尽力。→吉田茂

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改訂新版 世界大百科事典 「幣原喜重郎」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎 (しではらきじゅうろう)
生没年:1872-1951(明治5-昭和26)

第1次世界大戦後のワシントン体制のもとで活躍し,当時の日本外交を代表する外交官。憲政会・立憲民政党系の内閣の外相を歴任し,その国際協調主義的な政策は〈幣原外交〉と呼ばれた。第2次大戦後2代目の首相。大阪府生れ。兄の坦(ひろし)(1870-1953)はのち台北帝大総長。夫人は岩崎弥太郎の娘で加藤高明夫人の妹。

 第三高等中学校を経て帝国大学法科大学を1895年に卒業,外交官試験に合格して外務省に入る。仁川,ロンドンなどに在勤ののち本省の電信・取調各課長,取調局長となり,外国人顧問のアメリカ人デニソンHenry W.Denison(1846-1914)に師事して外交事務に習熟し,屈指の英語力を磨いた。1915-19年に外務次官,19年に駐米大使となり,ワシントン会議では全権として活躍した。24年に加藤高明憲政会総裁が護憲三派内閣をつくると,外交官試験合格者で最初の外相となった。おりから中国では国民革命が発展中であったが,幣原は中国の合理的立場の尊重,内政不干渉,日本の合理的権益の擁護を声明し,協調外交による国交改善を通じて日本の経済的利益の伸張と満州(現,中国東北部)の特殊権益の維持を図ろうとした。関税問題では原則的に中国の関税自主権を認める代りに,日本からの綿製品や雑品については一時期低率の協定税率にとどめるという方針をとった。そして信頼する佐分利貞夫を通商局長に起用し,経済外交の推進に努めた。27年に国民革命軍の北伐が南京,上海に迫るとイギリスは共同出兵を提議したが幣原はこれを拒絶し,他方で国共分裂を策した。だが軍部や枢密院は軟弱外交と攻撃し,金融恐慌もからんで憲政会内閣は倒れた。29年に浜口雄幸民政党内閣ができると外相に復活したが,田中義一政友会内閣の出兵外交で悪化した日中関係の改善は困難であった。ロンドン会議では海軍軍縮条約の調印に成功したが,統帥権問題が起こり浜口首相は狙撃され,幣原が一時首相代理となった。その後満州問題の打開が困難になるなかで31年秋に関東軍が満州事変を起こすと,幣原は不拡大方針をとったが,逐次軍に引きずられ,12月には倒閣・辞職した。

 その後は一貴族院議員にとどまったが,敗戦後占領軍の民主化政策の衝撃で1945年10月に東久邇稔彦内閣が倒れると首相に起用された。幣原内閣は占領軍の指令に追われながらも,46年元旦には幣原みずから起草した〈天皇人間宣言〉詔書をだすなど天皇制の保持に努め,またマッカーサーの草案をうけ入れて戦争放棄と天皇制保持の憲法改正事業をすすめた。公職追放の嵐のなかで4月に戦後最初の婦人参政の総選挙が行われ,自由党が第一党となったが,幣原は居すわりを策したのち,自由,社会,協同,共産4党の共同倒閣運動で退陣し,しばらく進歩党総裁となった。ついで大阪府から衆議院議員,49年には衆議院議長となった。死後,幣原平和財団が設立され,国立国会図書館に〈幣原平和文庫〉を設置。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「幣原喜重郎」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう
(1872―1951)

政治家、外交官。明治5年8月11日大阪府生まれ。1895年(明治28)帝国大学法科大学英法科を卒業。翌年外務省に入り、朝鮮、イギリスなどの領事館に在勤。1903年(明治36)岩崎久弥(いわさきひさや)の妹雅子(まさこ)と結婚、三菱(みつびし)財閥の女婿かつ加藤高明(かとうたかあき)の義弟となる。1915年(大正4)外務次官となり、1919年駐米大使、1921年にはワシントン軍縮会議の全権として手腕を振るう。1924年加藤高明内閣の外相に就任、彼自身は政党に所属しなかったものの、以後田中義一(たなかぎいち)政友会内閣時代を除いて、第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)憲政会、浜口雄幸(はまぐちおさち)、第二次若槻民政党各内閣の外相を歴任、イギリス・アメリカ両国との協調外交、いわゆる幣原外交を推進した。その特徴は中国への内政不干渉主義であり、それによって中国ナショナリズムを刺激することを避け、日本の中国での経済的権益を維持、拡大することにあった。満蒙(まんもう)特殊権益論を唱え、在留邦人の保護を名目に対支強硬政策を主張する政友会、陸軍などは「幣原軟弱外交」として非難したが、1930年(昭和5)中国との関税協定、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。後者に反感をもつ右翼が浜口首相を狙撃(そげき)し重傷を負わすと、幣原が首相代理となった。1931年4月、第二次若槻内閣の外相に留任したが、9月に起こった満州事変の処理に失敗し同年末政界から退き、以後第二次世界大戦中は要職を占めることがなかった。終戦後、親英米派の外交通ゆえに東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣の後継首相として1945年(昭和20)10月政界に復帰、天皇人間宣言の起草など天皇制護持に努め、また日本国憲法制定過程に立ち会った。占領軍による一連の民主化政策には後手後手の対応しかできなかった。1946年4月の総選挙後も政権居座りを図ったが、幣原内閣打倒四党共同委員会がつくられ、総辞職に至った。第一次吉田茂内閣成立後進歩党総裁となり、1947年総選挙で初めて衆議院に議席を獲得、以後民主党・民主自由党の最高顧問、1949年2月には衆議院議長となったが、在任中の昭和26年3月10日死去した。

[宮﨑 章]

『幣原喜重郎著『外交五十年』(1951・読売新聞社)』『幣原平和財団編・刊『幣原喜重郎』(1955)』『宇治田直義著『幣原喜重郎』(1958・時事通信社)』『服部龍二著『幣原喜重郎と二十世紀の日本――外交と民主主義』(2006・有斐閣)』『岡崎久彦著『幣原喜重郎とその時代』(PHP文庫)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「幣原喜重郎」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう

[生]明治5 (1872).8.11. 大阪
[没]1951.3.10. 東京
大正・昭和期の外交官,政治家。1895年帝国大学(→東京大学)法科大学法律学科を卒業,農商務省に入ったが翌 1896年外交官試験に合格,外務省に転じた。仁川(→インチョン(仁川)直轄市)をふりだしにロンドン,アントウェルペンの領事館に勤務。イギリス大使館参事官,オランダ公使を経て 1915年外務次官,1919年駐米大使。1921~22年のワシントン会議には日本首席全権として参加した。1924~27年第1次・第2次加藤高明内閣,第1次若槻礼次郎内閣の外務大臣として協調外交を展開(→幣原外交)。1926年貴族院議員に勅選され,1929~31年浜口雄幸内閣,第2次若槻内閣でも外相として欧米との協調をはかり,軍革新派から軟弱外交として攻撃された。戦後の 1945年10月内閣総理大臣に就任,天皇の「人間宣言」をみずから起草し,ダグラスマッカーサー元帥の指示のもと憲法改定にあたるなど(→憲法制定交渉),戦後日本に多大な影響を与えた。1946年4月に首相を辞任し,以後 1947年3月まで日本進歩党総裁,1946年5月第1次吉田茂内閣が成立すると国務大臣,復員庁(→復員省)総裁。1947年衆議院議員となり 1949年には衆議院議長に就任,在職のまま没した。著書に『外交五十年』(1951),伝記に『幣原喜重郎』(幣原平和財団編,1955)がある。

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百科事典マイペディア 「幣原喜重郎」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎【しではらきじゅうろう】

大正・昭和の外交官,政治家。大阪の生れ。東大卒後,外交官生活に入り,1915年以後大隈重信,寺内正毅,原敬内閣の外務次官を務め,1924年加藤高明内閣の外務大臣に就任した。その後第1次若槻礼次郎,浜口雄幸,第2次若槻内閣の外務大臣を歴任し,いわゆる幣原外交を行った。満州事変の収拾に失敗し下野。1945年10月首相となり占領軍の政策に従って憲法改正に着手した。その後,第1次吉田茂内閣の国務大臣を務め,進歩党総裁となった。衆議院議長として在任中に死去。→幣原喜重郎内閣
→関連項目内田康哉中村大尉事件日本自由党民主自由党

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朝日日本歴史人物事典 「幣原喜重郎」の解説

幣原喜重郎

没年:昭和26.3.10(1951)
生年:明治5.8.11(1872.9.13)
大正昭和期の外交官,政治家。堺県茨田郡真門村(大阪府門真市)に幣原新治郎の次男として生まれる。長兄坦は台北帝国大学総長,枢密顧問官。明治28(1895)年帝大法科大学卒業。翌29年外務省入省。以後累進し,大正4(1915)年第2次大隈内閣で外務次官となる。そこでシベリア出兵,パリ講和会議等第1次大戦時の諸問題に従事した。8年駐米大使,10年末のワシントン会議では全権委員として海軍軍縮および中国・太平洋における現状維持をめぐって列強との協調を図った。13年6月から昭和2(1927)年4月までの第1次外相期(護憲3派内閣から若槻内閣まで)および,4年7月から6年12月までの第2次外相期(浜口内閣から第2次若槻内閣まで)に,中国市場の確保を前提に英米から協調を調達するいわゆる「幣原外交」を展開,ロンドン海軍軍縮条約,日中関税協定などを締結した。しかし,対中国直接交渉が不調ななか,関東軍によって満州事変が起こされ若槻内閣の総辞職とともに退陣した。敗戦後は政治家として昭和20(1945)年10月に首相。また,同24年には衆院議長に就任。<著作>『外交五十年』<参考文献>幣原平和財団編『幣原喜重郎』

(小池聖一)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「幣原喜重郎」の解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう

1872.8.11~1951.3.10

大正・昭和期の外交官・政治家。大阪府出身。東大卒。1919年(大正8)駐米大使に任じられ,ワシントン会議の全権もつとめた。ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約締結にあたり,ワシントン体制下の国際協調に努力。2回にわたる民政党内閣期に外相となり,対中政策では経済進出に重点をおいた,いわゆる幣原外交を展開したが,戦時色が強まるとともに第一線から退いた。占領開始後に再登場して組閣,民主化政策とくに新憲法草案の作成をめぐってGHQとの交渉にあたった。新憲法(日本国憲法)第9条の戦争放棄規定は幣原の思想に一起源があるという説もある。49~51年衆議院議長。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「幣原喜重郎」の解説

幣原喜重郎 しではら-きじゅうろう

1872-1951 大正-昭和時代の外交官,政治家。
明治5年8月11日生まれ。岩崎弥太郎の娘婿。幣原坦(たいら)の弟。駐米大使をへて,ワシントン会議全権委員となる。大正末から昭和初期にかけて第1・第2次加藤高明,第1次若槻,浜口,第2次若槻内閣の外相となり,対英米協調を旨とする幣原外交を展開。昭和20年首相となり,憲法改正にあたった。24年衆議院議長。昭和26年3月10日死去。78歳。大阪出身。帝国大学卒。著作に「外交五十年」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「幣原喜重郎」の解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう

1872〜1951
大正・昭和期の外交官・政治家
大阪の生まれ。岩崎弥太郎の女婿。東大卒。外務次官・駐米大使を経てワシントン会議の全権委員となる。1924年以来,加藤高明・第1・2次若槻礼次郎・浜口雄幸各内閣の外相として協調外交を推進,'30年ロンドン海軍軍縮条約を締結した。第二次世界大戦後,'45年10月内閣を組織し日本国憲法の制定にあたる。翌'46年5月吉田茂内閣の国務相。のち衆議院議長となり,在任中に死去。

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世界大百科事典(旧版)内の幣原喜重郎の言及

【進歩党】より

…公職追放で議員の95%弱である260名を失い,46年4月の総選挙では当選94名で社会党とほぼ同数であり第二党の地位しか得られず,保守主流の役を自由党に譲る結果となった。党首には初め宇垣一成を擁立する動きがあったが,45年12月18日町田忠治を総裁に決定,町田が追放されて以降は斎藤,犬養健らで運営,46年4月に入ってようやく首相を辞任した幣原喜重郎を総裁として迎え入れた。幣原内閣の与党であった進歩党は国民の批判を浴びて苦境に立っていたが,第1次吉田茂内閣の成立で救われ,再び与党として閣僚を送った。…

【天皇人間宣言】より

…この詔勅では太平洋戦争敗北後の新日本建設の指針として1868年(明治1)の五ヵ条の誓文を掲げ,ついで天皇と国民の紐帯(ちゆうたい)は神話と伝統によって生じたものではなく,また天皇を現人神(あらひとがみ)としそれを根拠に日本民族の他民族に対する優越を説く観念に基づくものでもないとして,天皇の神格を否定した。この詔勅はGHQの支持を受けて幣原喜重郎首相が英文で起草し,占領軍による日本民主化政策の一環として発せられた。それまで国家神道を中心に国民の戦争への動員がなされてきたので,発布時には天皇の神格否定の側面が国民に強い印象を与えたが,1977年8月,昭和天皇はこの宣言の〈神格否定は二の問題〉であり,五ヵ条の誓文が民主主義の伝統を表すものであることを強調したのだと発言した。…

※「幣原喜重郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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