参議(読み)サンギ

デジタル大辞泉 「参議」の意味・読み・例文・類語

さん‐ぎ【参議】

[名](スル)
国家の政治上の議事に参与すること。また、その人。
(「三木」とも書く)古代、令外りょうげの官の一。太政官だいじょうかんに置かれ、大・中納言に次ぐ要職。四位以上の人が任ぜられた。八座。宰相。
明治2年(1869)太政官に置かれた官名の一。左右両大臣の次位。木戸孝允大久保利通西郷隆盛らが任ぜられて実権を握った。同18年、内閣制の実施で廃止。

おおまつりごと‐びと〔おほまつりごと‐〕【参議】

さんぎ(参議)1」に同じ。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「参議」の意味・読み・例文・類語

さん‐ぎ【参議】

  1. 〘 名詞 〙
  2. ( ━する ) 国家の政事に参加して、政策などの大事を議すること。
    1. [初出の実例]「勅従三位大伴宿禰安麻呂。〈略〉令議朝政」(出典:続日本紀‐大宝二年(702)五月丁亥)
    2. [その他の文献]〔後漢書‐班固伝〕
  3. ( 「三木」とも ) 奈良時代以降設置された官職。三位、四位の中から有能な者を任命して朝政に参加させ、国政を審議させる。大臣、大中納言に次ぐ重職。令外の官。八座。やくらのつかさ。おおまつりごと。宰相。
    1. [初出の実例]「右大弁正四位下大伴宿禰道足等六人。並為参議」(出典:続日本紀‐天平三年(731)八月丁亥)
  4. 明治二年(一八六九)七月、太政官の中におかれ、左右大臣の次に位して、朝政に参与した官名。また、その人。正三位相当の重職であった。同一八年一二月の官制改革で廃止された。
    1. [初出の実例]「外務卿副島種臣公、更に参議に任ぜられ」(出典:東京日日新聞‐明治六年(1873)一〇月二〇日)
  5. 昭和一二年(一九三七)、日中戦争に際して、内閣総理大臣諮問機関として設置した官名。また、その人。同一八年廃止。内閣参議
  6. 日本が朝鮮半島を支配していたとき、朝鮮総督府中枢院に設置された職名。また、その人。総督の奏請により、内閣が任命し、顧問とともに、院議を審定する勅任官待遇、または、奏任官待遇の官。任期は三年。

おおまつりごと‐びとおほまつりごと‥【参議】

  1. 〘 名詞 〙 令外(りょうげ)の官で大臣、納言につぐ重職。弘仁年間(八一〇‐八二四)以降定員八人。おおきまつりごとびと。さんぎ
    1. [初出の実例]「高麗に遣(つか)はさるる大使(おほきつかひ)膳臣葉積・副使(そへつかひ)坂合部連磐鍬・大判官(オホマツリコトヒト)犬上君白麻呂」(出典:日本書紀(720)斉明二年九月(北野本訓))

おおき‐まつりごとびとおほき‥【参議】

  1. 〘 名詞 〙おおまつりごとびと(参議)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「参議」の意味・わかりやすい解説

参議 (さんぎ)

(1)古代から近世におかれた朝廷の官職名。令外官の一つ。三木とも書き,宰相,相公,八座(はちざ),やくらのつかさともいう。参議の呼称は〈朝政に参議する〉に由来する。令制で朝政に参議するのは大納言の任であったが,大納言以外の者にもその任を広げて中納言を設置した。731年(天平3)8月諸司の主典(さかん)以上に命じ,政務にたえる者6名を選ばせて参議としたのが正式官名の始まり。このとき参議に食封(じきふ)80戸を与えた。しかし806年(大同1)観察使を置き,地方行政の監察を行わせ,これに参議を充て,翌年参議の号をやめて観察使のみとしたため,朝政参議の機能は消えたが,810年(弘仁1)参議制を復活させた。このとき畿内と七道の観察使を参議としたため,参議は8人となり,のちこれが参議の定数のごとく見られるが,定数が定められたわけではない。ただし参議を八座(やくら)の臣というのはこれに由来している。参議は,三位以上の者か,蔵人頭,左・右大弁,左中弁,近衛中将,式部大輔,または5ヵ国の守の歴任者を資格とし,三位以上でも参議にならない者を非参議といった。なお参議はその成立の経過から見ても大・中納言に準ずる地位にあるが,納言のごとく太政官符および官宣旨を下す権限を持っていない。
執筆者:(2)明治初期,内閣制以前の太政官制における重職。1869年(明治2)7月8日の官制改革で,太政官に左大臣,右大臣,大納言とともに設置され,左・右大臣は天皇を補佐して大政を掌理し,参議は大納言と大政に参与した。副島種臣前原一誠についで大久保利通,広沢真臣佐々木高行斎藤利行,木戸孝允,大隈重信ら薩長土肥4藩の代表者が任命され,しだいに権限を握った。71年の廃藩置県直後における7月29日の官制改革で,正院,左院,右院の3院が設置されるや,参議は最高官庁としての正院にあって太政大臣,左・右大臣をたすけて国政の機務に参画した。73年5月2日,内閣議官として天皇輔弼(ほひつ)の大臣と分離し,明治6年10月の政変後は,各省の長官を兼任し(10月25日),また,成員も増やされた。この兼任制は80年2月28日に解かれたが,翌81年,いわゆる明治14年の政変後ふたたび兼任制が復活した(10月21日)。85年12月22日の内閣制度の創設で廃官となった。1871年以降のメンバーを発令順に列記すると次の通りである。木戸孝允,西郷隆盛,大隈重信,板垣退助,後藤象二郎,大木喬任,江藤新平,大久保利通,副島種臣,伊藤博文,勝安芳,寺島宗則,伊地知正治,山県有朋,黒田清隆,木戸(再任),板垣(同),西郷従道,川村純義,井上馨,山田顕義,松方正義,大山巌,福岡孝弟,佐々木高行(西郷従道以下8名が廃官当時の参議)。いかに薩長土肥の藩閥中心であったかがわかる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「参議」の意味・わかりやすい解説

参議【さんぎ】

(1)三木とも書く。唐名は宰相。702年大伴安麻呂ら5人に朝政を参議させたことに始まる令外官(りょうげのかん)。731年から制度化され,左右大臣・大納言・中納言に次ぎ,公卿として太政官(だいじょうかん)の最高政務にあずかった。のち定員は大体8人。(2)明治政府初期の重職。1869年の官制改革で太政官中に設置され,木戸孝允大久保利通らが任命された。1871年の改革以後は,太政大臣・大納言とともに正院を構成し,立法・司法・行政を統轄した。1885年内閣制度の施行により廃止。
→関連項目愛国社左経記正院政府副島種臣広沢真臣前原一誠民撰議院設立建白

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「参議」の意味・わかりやすい解説

参議
さんぎ

(1) 律令制のもとで設けられた朝廷の官職名。令外の官。その地位は大臣,納言の次に位する重要なもので参議以上が公卿と呼ばれた。大宝2 (702) 年5月に初見し,のち一時廃止されたが,弘仁1 (810) 年に再び設けられたとき,定員は8人と決められた。奈良時代権参議,准参議,法参議などがおかれたこともある。

(2) 明治政府は慶応4 (1868) 年閏4月に太政官制を復活し,翌明治2 (69) 年7月の職員令により左右大臣のもとに大納言,参議をおいた。同4年7月廃藩置県が行われると,参議は太政大臣,納言 (この納言は明治4〈1871〉年8月,左右大臣に改められた) とともに正院を構成し,大臣,納言を補佐して大政に参与し,天皇を補翼する重職となった。 1873年5月太政官職制の一部が改正されて,天皇輔弼の責に任じる者は太政大臣および左右大臣のみとなり,参議は国務国策の審議立案者として区別された。参議には西郷隆盛木戸孝允大久保利通板垣退助大隈重信など,事実上明治政府の実力者が任じられていた。この頃から参議が各省の卿を兼ねることとなっていたが,80年この慣例は廃止されて,参議をして国策の審議に専念させることとなった。 85年,内閣制度発足とともに廃止された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「参議」の意味・わかりやすい解説

参議
さんぎ

(1)令外官(りょうげのかん)の一つ。納言(なごん)に次ぐ公卿(くぎょう)。宰相、相公、八座(はちざ)、「やくらのつかさ」ともいい、「おおまつりごとひと」とも読む。参議の号は、702年(大宝2)大伴安麻呂(おおとものやすまろ)以下5人に朝政に参議させたというのが初見であるが、これは仮の措置であって、正式な官名としては、731年(天平3)藤原宇合(うまかい)以下6人を任命したのに始まるか。807年(大同2)参議の号を廃して観察使(かんさつし)を置いたが、810年(弘仁1)に至り、またもとの参議に復した。この参議に進むには七つのコースがあり、蔵人頭(くろうどのとう)、大弁、左中弁、近衛(このえ)中将、式部大輔(たいふ)の5官のほか、5か国の受領(ずりょう)歴任者と三位の位階をもつもののなかから選ばれた。

[渡辺直彦]

(2)明治初年から内閣制度実施までの政府要職。1869年(明治2)7月の職員令官制で、左右大臣、大納言とともに太政官(だじょうかん)の職として新設された。職掌は大納言と同じく大政に参与するものである。71年廃藩置県に伴う官制改革で、太政大臣、納言と正院(せいいん)を構成。大久保利通(としみち)、木戸孝允(たかよし)、板垣退助(たいすけ)、大隈重信(おおくましげのぶ)ら薩長土肥(さっちょうどひ)藩の実力者が任命され、実質的に政府の実権を握るようになった。73年征韓論政変後は、各省の長官=卿を兼任する者もあり、定員も増加、参議の権力はより強大化した。80年いったん参議と省の長官が分離されたが、翌年にはふたたび兼任が行われた。85年内閣制度実施で太政官制の廃止とともに廃官となる。

[佐々木克]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「参議」の解説

参議
さんぎ

1古代の太政官において,大臣や大・中納言とともに天皇の諮問や国政事項を審議した令外官(りょうげのかん)。唐名は宰相。702年(大宝2)に5人の官人を朝政に参議させたのが初見で,731年(天平3)に封80戸が支給され制度として確立した。平安初期の平城朝に一時廃され観察使となるが,810年(弘仁元)の復活時にその定員8人を継承したため,以後八座とも称した。三位以上の者や要職の歴任者を任命の資格とし,三位以上で参議でない者を非参議といった。

2近代の太政官制において朝政に参議する官。1869年(明治2)7月の職員令では従三位,定員3人,廃藩置県後の太政官職制改定で正院内に設置され,大臣・納言を補佐して大政に参与。73年の改正で三職に位置づけられ,天皇輔弼(ほひつ)の任にあたった大臣に対し,参議は内閣の議官として庶政にあたった。参議に就任したのは,おおむね大久保利通・木戸孝允(たかよし)・西郷隆盛ら雄藩出身者で,国策決定に実質的影響力をもった。73年の明治6年の政変後,参議・省卿兼任制が敷かれた。一時両者は分離したが,81年の明治14年の政変後に再び兼任となり,85年内閣制度創設により廃止された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

普及版 字通 「参議」の読み・字形・画数・意味

【参議】さんぎ

議事に与る。〔旧唐書、李林甫伝〕林甫久しく樞衡(すうかう)を典(つかさど)り、天下の威竝びに己に歸す。台司の務、(陳)希烈敢て參議せず。但だ唯(ゐだく)するのみ。

字通「参」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「参議」の解説

参議
さんぎ

①奈良時代,令外官 (りようげのかん) の一つ
②明治初年の行政官
③日中戦争中,近衛文麿内閣により設けられた官職
702年設置。大臣 (おおおみ) ・納言につぐ重職で,太政官の政務審議に参加。
1869年,太政官に設置。大臣を補佐して国政に参加し,西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通らが任命された。'85年内閣制度実施により廃止。
1937年内閣参議として設置。内閣の大政に参画した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の参議の言及

【内閣】より

…他方で高度に組織された行政および政党官僚機構を背後に持つ内閣に対し議会の統制力が弱まったこと,また閣内では増大する閣議事項や所管省庁事務の膨張に追われがちな閣僚個々の事情に対応して,各種閣内委員会(閣僚会議)への決定権の分散が進められたりしたことなどから,合議決定体としての内閣の実質は,一方では首相および少数のインナー・キャビネットへ,他方では行政官僚制へと移る傾向が著しい。
[日本における沿革]
 日本の法令に〈内閣〉が登場する早い例は1873年の太政官達にあり,〈内閣ハ天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ当否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸〉となるものとされた。この〈太政官内閣制〉では天皇の輔弼(ほひつ)に任ずる太政大臣,左右大臣等は公家・旧藩主に限られ,参議は直接の輔弼責任を負わない。…

※「参議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

大臣政務官

各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...

大臣政務官の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android