平安中期の公卿。右大臣師輔の三男。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。968年(安和1)兄兼通を越えて従三位に昇り,翌年蔵人頭を兼ねたまま中納言に進んだ。左大臣源高明が失脚した安和の変が起きたのはその1ヵ月後で,兼家もこれに重要な役割を果たしたものと思われる。その後,順調に昇進して,972年(天禄3)長兄の摂政伊尹(これただ)が没したときは,すでに大納言兼右大将に進み,次兄の権中納言兼通との間に大きく距離をあけていたので,世人は兼家を伊尹の後継者とみなしていた。しかし兼通は妹の故中宮安子(村上皇后,冷泉・円融母)の遺命を円融天皇に申し立て,逆転に成功して内大臣に昇り,ついで関白となった。その後も兼通は弟の昇進を阻止し,臨終に及んでも弟の関白就任を阻んで,従兄の頼忠に関白を譲った。こうして兼家は十数年の雌伏を余儀なくされたが,984年(永観2)女の詮子(東三条院)の生んだ皇子(のちの一条天皇)が花山天皇の皇太子となるに及び,ようやく前途が開けた。しかも兼家は座して幸運を待つような人物ではなく,986年(寛和2)花山天皇の退位出家を演出し,外孫の皇太子を皇位につけて,待望久しい摂政の座に就くことに成功した。しかも彼は摂政就任後まもなく右大臣を辞したので,朝廷は准三宮の宣旨をたまい,太政大臣以下三公の上に列すべきことを宣下した。いわゆる〈一座の宣旨〉で,ここに摂政ないし関白の朝廷における独自至上の地位が確立するに至った。ついで989年(永祚1)天皇元服の加冠奉仕のため太政大臣に任ぜられ,元服後,摂政・太政大臣を辞して関白に補されたが,まもなく病により辞官出家して如実と称し,990年7月2日,東三条邸において没した。法興院,大入道殿,東三条殿などと称された。
執筆者:橋本 義彦
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平安中期の公卿(くぎょう)。師輔(もろすけ)の子。母は信濃守(しなののかみ)藤原経邦(つねくに)の女(むすめ)盛子。968年(安和1)兄兼通(かねみち)を超えて従三位(じゅさんみ)、蔵人頭(くろうどのとう)となり、翌年参議を経ず中納言(ちゅうなごん)になった。970年(天禄1)右大将、972年長兄伊尹(これただ)の死後、兄兼通は円融(えんゆう)天皇に、天皇の母后で兼通の妹にあたるいまは亡き安子(あんし)の遺言状「関白は兄弟の順によるべし」との書付けを見せたため、親孝行の天皇はただちに兼通を関白にしたという説話により、兼通は内大臣関白となり、兼家は右大将のままであった。977年(貞元2)兼通は臨終にあたり従兄の頼忠(よりただ)を関白とし、兼家を治部卿(じぶきょう)に左遷した。978年(天元1)頼忠の恩恵により右大臣に任ぜられたが、986年(寛和2)円融天皇の女御(にょうご)詮子(せんし)(兼家の娘)の産む一条(いちじょう)天皇を早く帝位につけたいため、花山(かざん)天皇の譲位に計画をめぐらしたことは見逃せない。一条天皇即位とほぼ同時に頼忠は太政(だいじょう)大臣となったが、兼家はこのとき右大臣摂政(せっしょう)になった。だが、ただちに右大臣を辞し、三公之上に列せられ、摂政のみとなった。ここに摂政が初めて独立して強い権威をもつこととなる。989年(永祚1)頼忠の死後、兼家は太政大臣、翌年5月2日には関白となり、同8日病のため出家。7月2日死去した。
[山中 裕]
(朧谷寿)
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929~990.7.2
法興(ほこ)院殿・東三条殿とも。平安中期の公卿。師輔の三男。948年(天暦2)従五位下。968年(安和元)兄兼通をこえて従三位。参議をへずに中納言・大納言と昇進したが,972年(天禄3)摂政伊尹(これただ)の後継をめぐる兼通との争いに敗れ,977年(貞元2)兼官の右近衛大将を削られ治部卿に左遷された。しかしまもなく兼通が没し,翌年右大臣となる。986年(寛和2)花山天皇を退位させ,女の詮子(せんし)(円融天皇女御(にょうご),東三条院)が生んだ一条天皇を即位させて摂政となり,右大臣を辞した。989年(永祚元)太政大臣。翌年(正暦元)関白となったが病没。兄兼通との不仲は有名で「大鏡」「栄花物語」に逸話がみえる。
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…他方藤原氏側にも内部対立はあった。関白太政大臣の実頼は弟師輔と競争関係にあり,師輔死後もその子伊尹,藤原兼家らの外戚の威をかりた行動を憎み,次の弟師尹も兼家と対立していたらしい。しかし結局は源氏である高明排斥では一致したようで,中心人物は師尹と兼家であり,在衡は無関係と思われる。…
…上・中・下3巻より成る。上巻は954年(天暦8)から968年(安和1)までの15年間,中巻は969年から971年(天禄2)までの3年間,下巻は972年から974年(天延2)までの3年間で,作者の20歳から40歳に至る21年間の藤原兼家との結婚生活の経緯を叙述する。日次記として書かれたのではなく,おそらく971年に起筆,和歌の詠草や断片的な備忘記にもとづいて上・中巻を書き終えたのち下巻が書き継がれ,後に全体的に加筆されたものらしい。…
…平安時代の邸宅(図)。東三条院ともいう。藤原北家発展の基礎をきずいた良房の邸宅にはじまり,忠平を経て兼家へ伝えられた。兼家がその西対を清涼殿に似せてつくり世の非難を浴びた話は有名である。大内裏の東南,二条大路の南,西洞院大路の東にあり,東西1町,南北2町の地を占めた。兼家のあと東三条院詮子(兼家女,円融天皇女御)を経て道長が所有し,一条,三条両天皇の行幸を迎えている。道長から頼通へ伝えられたが,東三条殿とは別に道長は土御門(つちみかど)殿を,頼通は高陽(かや)院の経営に力をいれた。…
…日本書道の流派の一つで,法性寺に住み法性寺殿と呼ばれた関白藤原忠通にはじまる。小野道風,藤原行成の和様を継いで強さを加え,字形を整えた書風で時好にかなって広く行われ,忠通の子藤原兼実らに承け継がれて,鎌倉時代にも流行した。《筆道流義分》では,これから後京極流が出たように記されている。法性寺流の書風の入った遺品としては,藤原(世尊寺)伊行の《葦手(あしで)下絵和漢朗詠抄》(国宝)などが顕著な例。【田村 悦子】…
※「藤原兼家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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